yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

池波正太郎の随筆と「鬼平」

『食卓の情景』に始まって、彼の随筆を七冊ばかり読んできた。先日台東区立図書館で読んだ『わが家の夕めし』もアマゾンで手に入ったし、それと同系列の講談社刊の随筆、『わたくしの旅』も『新しいもの古いもの』も宝塚図書館で借り出して読んだところである。

わたくしの旅

わたくしの旅

新しいもの古いもの (講談社文庫)

新しいもの古いもの (講談社文庫)

さいごの三冊は晩年の短いエッセイも収録されていて、「池波節」がよりはっきりとしているというか、より円熟味を増した形で顕れていて、となりのおじさんに語りかけられているような、そんなほのぼのした気持ちになった。その奥深さ、まさに「文は人なり」。今のこのなんとも忙しげで落ち着かない、そしてなんとも味気ない世の中を彼がみたら、なんて薄っぺらい日常をわたしたちが送っているのかと、同情してくれただろうなと、思ってしまう。

鬼平シリーズもほぼ読み終わったので、もうあと読む巻がないのが淋しい。なぜこんなに魅力があるんだろうと考えていて、はたと思い当たった。気づけばごく当たり前のことなのだけど、鬼平はまさに池波正太郎自身なんですよね。その気風のよさ、人情味、それでいて正義感の強いところ、女性への優しさ、そしてアウトローをはじめとするはみ出し者たちへの共感、こういった要素はすべて著者そのものなんだと、気づいた。フェミニストが目くじらたててしまうような、そんな表現やら出来事やらが彼の随筆にも小説にもいっぱいつまっているけど、その基底にあるのは女性への愛敬の念にちがいない。男と女との間にある埋め難い断絶、それがかりにフィクションでもそのフィクションを奉ることで両者が上手く折り合って行ける、そういう機微を彼は描いているのだろう。声高に「男女同権」を叫んで、男と女を均一化してしまうことの愚を、彼ほど理解していたひとはいないと思う。男と女が「イッショ(同じ)」だったらなにもおもしろくないですもの。

『わたくしの旅』の中にいかにも池波らしい章があった。「時代小説について」というもので、時代小説を書くのに作家はどういう作業をするのかという編集部の要請に応えての文である。その作業の三つの必須条件——自然現象、制度、人間——を彼は提示している。その最後に、「人間が歴史」という項目の中で、彼は自分がもっとも主張したかったことを述べている。以下である。

私の場合、歴史は人間によって成り立っている。人間というものは何千年も昔から本質的にそれほど進歩していないのだ。(中略)つまりその見方をふまえておいて、私は史料や史書をよむ。そこに私の<テーマ>が生まれてくる。私の見方で歴史がつかめ、人物がつかめるというわけだ。

これはまさにひところ西洋文学研究者の間で「流行した」ニューヒストリシズムの理論と通底している。十七世紀の英国「歴史」を知りたければ、シェイクスピアをはじめとする劇作家の芝居をみればよいというのである。歴史は史書の中に固定化されてあるものではなく、そのとき、その場を生きた人間としてあるわけだから、首肯できる理論である。そういうことをきっちりとふまえた上での(彼にとっては当りまえのことだったのだろうけど)鬼平なり梅安なり小兵衛像なのだというのが、あらためて納得できる。