yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

池波正太郎ゆかりの場所を訪ねて

2泊3日の東京旅行から先ほど帰宅した。綿密に「食探訪」の予定を立てていたのに、そのファイルをDropboxに入れ忘れてしまった。これが第一の失敗。もっとも入れていても二つの理由で役には立たなかったかも。iPadをコンピュータ代わりに持参したのだが、宿泊したホテルではLAN ケーブルしかなく、WiFi環境ではなかった。E-Mobileは先月末でキャンセルして、結局iPadを使わずじまいだったのでDropboxを使うどころではなかった。もう一つの理由は、池波のゆかりの地(特に浅草)を訪ねてうろうろして、ちょうど折良く昼どきなり夕食どきに彼の行き付けだったレストランなり蕎麦屋に行き当たるというのはほとんど不可能だった。彼ゆかりのレストランを探すというのは彼の作品の地を訪ねるよりはるかに骨が折れる。かりにその食事どころを見つけても、タイミングよく開店時間に「はまって」いるわけではない。

結局行き当たりばったりに(食の方は後回しで)初日も二日目もうろうろすることになった。開けて最終日の今日、(これは一応予定通りに)台東区中央図書館の池波正太郎記念文庫に出かけたのだが、この記念文庫を今回の探訪の最初に持ってくるべきだったと臍を噬んだ。「池波正太郎ガイドマップ」なるものを手に入れたからだ。作品の舞台と彼自身のゆかりの地をすべて網羅したまことに親切なマップ兼解説書である。これを片手にまわれば、この二日間の実績よりはるかに効率よくゆかりの地の探訪が可能だったのである。「あぁ....」とため息。やり残した分は(予定の90パーセントだが)次回に持ち越すことにした。

次回は「鬼平」ゆかりの地を特に回りたい。軍鶏鍋屋の「五鉄」とかおまさと五郎兵衛が所帯を持っている店とか、そしてなによりも平蔵の役宅と自宅のある場所を確認したい。フィクションではあるけど、フィクションが現実を超えるってことあるでしょ。鬼平はまさにそういう世界だから。この世界にどっぷりと浸かっていると、池波や彼が創りだした(?)虚構界の人物やらのあの世の人の方が身近に感じられてしまう。現実と虚構との反転が起きてしまう。

この病にかかっている人が意外と多いのが、今日台東区中央図書館で読んだ池波関連の本で分った。彼へのオマージュを書いている人が完全に彼のとりこになっているのを知った。彼らにとって、池波の小説の登場人物はまさに現実に生きている人として映っているのである。

またこの池波文庫、まとまったコレクションになっているおかげで、一般ではなかなか目につかない彼のエッセイ集にも目を通すことができた。いちばん興味深い内容だったのは『わが家の夕めし』というタイトルのエッセイ集だった。ここで彼が武智鉄二を高く評価していることが分った。三島由紀夫が時代劇に主演したらどうかという提案(これを書いたのが三島自決の前年だった)をしているのもおかしい。大衆演劇の「終焉」が演劇の担い手が庶民目線を忘れたことに起因していると断じてもいた。このあたり、もっともっと彼に聴きたかった!新国劇の脚本と演出を手がけていた池波ならではの見解だから。映画通(というか映画狂)の彼ならではの批評がヌーベルバーグ評にみてとれた。私が予測していた通り、ヌーベルバーグの旗手たちの「ひとりよがり」を嘆いていた。まったく同感である。この本は講談社から出ているのだが(絶版?)、古書で入手するつもりである。

彼の書斎が再現されていたのだが、なかなか興味深かった。そして池波正太郎という人のひととなりが少し分った気もした。とても几帳面!机の傍にすぐ手にとれるところに置いてある事典類の充実度に目を見張った。でもこれも考えてみれば至極当然。あれだけの時代劇の傑作をものにするのは、これら事典は必携だから。ちょっとおもしろかったのは、小学校時の通知簿。もちろん全甲!彼が小学校卒業後にすぐに奉公に出るのを担任の先生が惜しんだというのも宜なるかな。