yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

池波正太郎著『作家の四季』2003年講談社刊

『作家の四季』、この本のほとんどを映画評が占める。それにしても池波正太郎という人の多才ぶり、そしてその批評眼の的確さに舌を巻いてしまう。いくつもの連載を抱えて多忙をきわめていても、映画の試写会にはでかけてゆき(もちろんプライベートでも)、観てきた映画の批評を書くなんて、まさに超人的。でもそういう多忙極まりない生活が知らないうちに彼の身体を蝕んで、67歳という「若さ」で亡くなることになったのかもしれないと思うと、切なくなる。亡くなる2年ほど前のエッセイもこの本には収められていて、そのどれもが今までできていたことができなくなったことへの痛恨の念を述べているのが(いかにさりげなくであっても)、読む方としては辛い。

彼のあまりにも鋭い、それでいてその鋭さの中に温かさが漂った映画評。おそらくこれに匹敵する批評の書き手は淀川長治さんくらいしかいないように思う。と書いたあと、荻昌弘さんのことを思いだした。この人も同質の映画批評をする人だった。淀長さんも荻さんも池波さんとは親しかったことを、池波さんの著書から知った。まさに類は友を呼ぶ。この三人ともどんな映画に対してもあしざまな貶しはしなかった。それでいて、読み込んだ読者には彼らがその映画をほんとうに好きなのかどうかが分るそんな繊細な批評文を書いた。文章の達人でなければなしえない技だった。それはおそらくこの三人ともに、映画の登場人物のいきいきとした息吹を、そしてなまなましい生活を感じ取り、それに共鳴するそういう資質、姿勢を持ち合わせていたからに違いない。そして「作り手」への尊敬の念を常に持ち続けたからだろう。

加えて、池波には映画の中に展開する「生活」それも市井の人のそれをダイレクトに感じ取るそういう感受性があったからだと思う。演劇の舞台と映画との決定的違いは、演劇が非日常を舞台上に現出させることを目指すのに対して、映画はもっと”down to earth” で、非日常そのものというよりも、日常と非日常との裂け目のようなところを描き出す。そこのところが、まさに彼の小説、例えば鬼平のエピソードの数々と重なってくる。そういえば彼が座付き脚本家だった新国劇も歌舞伎に比べるとずっと”down to earth”で、ひな壇にまつられる古典的、かつ「高尚な」演劇を目指したのではなく、「大衆の目線」、あるいは彼らの日常性にあくまでも拘ったものだった。映画とその点では共通していた。

溝口の『元禄忠臣蔵』、市川崑の『鹿鳴館』はとくに興味深かった。欧米の映画、それもけっこう実験的なものも取り上げていて、評価は好意的だった。ふしぎなことにいわゆるヌーベルバーグ系は岡田喜重以外は批評対象になっていない。それも興味深い。そういやゴダールなんてのもない。晦渋さを標榜するインテリ映画が対象から外れているのが、小気味良い。池波正太郎らしいと思う。観ていないものもあるので、機会があればこの本片手に観てみようと思う。

作家の四季

作家の四季