yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『塩原多助一代記』@国立劇場 10月21日

三遊亭円朝原作の復活狂言春陽堂刊の『日本戯曲全集』所載の『塩原多助一代記』を底本に補綴した台本である。「底本にはない山口屋の強請の件を新たに四幕目として加えた」と国立劇場文芸課の説明が筋書にあった。

ひいき目にみればここまでの「盛り沢山」は非常に意欲的。でも一歩引いてみるなら散漫の誹りを免れ得ない。そんな態をなしていた。もちろん商業演劇の劇場ではない国立劇場だからこういう通し狂言が可能であり、それはそれとして意味があると思う。でもここまで「退屈」な狂言は最近ではあまり経験がない。これは坂東三津五郎をはじめとする役者たちの所為ではなく、脚本そのものに起因しているように思う。これだけのキャストをうまく使いこなせなかったのはきわめて遺憾。というのも、もとの円朝の噺が面白くなかったはずがないからである。ずいぶん前に円朝の『牡丹灯籠』を三津五郎(当時は八十助)と時蔵で観たが、そのときの三津五郎はいきいきと楽しげで、私はいっぺんで彼のファンになったのだ。落語噺のこっけい味を上手く出して秀逸、今でもその所作が目に浮かぶ。私はそれで歌舞伎に嵌ってしまった。

まずプロット構成上のミス。クライマックスの所在が分からない。あまりにも盛り沢山にいろいろなエピソードを詰め込んだのが原因である。主テーマが実直者の太助の出世譚であり、それを主軸に構成をきちっとすべきで、サブプロットの類いはできるだけ省くべきだっただろう。主テーマがぼやけて、一体どこに焦点が合わされているのかが最後まで分らなかった。

たしかに歌舞伎演目では場面と場面との繋がりがあまり緊密ではないものが多く、だからこそ一幕だけあるいは数幕のみをみせるということが普通になっているのだが、このような通し狂言の場合はもう少し工夫が必要だろう。八月の新橋演舞場の『伊達十役』はその点できわめて優れていた。改作というか、ほとんど新作を創り上げるということで、舞台に提示されるドラマツルギーに説得力があった。この『塩原多助』も創作に近いわけだから、それを最大限に生かしてドラマを構築してもよかったのではないだろうか。せっかくのチャンスを逃してしまったようで残念である。

またテーマの上でも現代社会との齟齬があったように思う。刻苦勉励の輩のみが報われ、それを阻んだ者は処罰されるなんていう勧善懲悪の説教調になっては面白くない。勤勉、正直な太助ゆえにその徳が報われて出世するというのが通奏低音になっているのは事実だろう。でもそれが主テーマとなってしまうと、演劇としてのおもしろさは半減する。そのおもしろくない原因は「悪」が魅力的に描かれていないという点につきるのではないか。歌舞伎を「悪の華」として海外の人に「紹介」したのは三島だけど、歌舞伎に躍動する悪のつきない魅力を描くのに失敗すると、舞台のおもしろさは激減する。

そういえば例の八十助が主演した円朝の『牡丹灯籠』、まさにこの悪の限りない魅力を描いて秀逸だった。