yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『葛西橋』新派名作撰@三越劇場10月20日

今回の東京行きではこの新派公演と国立劇場の『塩原多助』を観てきた。『塩原多助』については稿を改めたい。

公式サイトによると、「北條秀司と花柳章太郎のコンビによる東京慕情編3部作の第2弾として、『佃の渡し』に続き昭和35(1960)年明治座で初演された」ということである。
以下が公演チラシ。

北條秀司作ということからも推察できるように、人情劇というか、ある種のメロドラマである。ただ、ちょっと新派路線を外れているような感じがするのは上方調というか、松竹新喜劇的というかそういう「おかしみ」の要素が随所にちりばめられているからだろう。べったりと情に訴えかけるとみせて(これが新派の「常套」といえるかもしれないけど)、ちょっと肩すかしをかけるというか、フェイントをかける、そういう醒めた目を感じさせる脚本である。これ、けっこう演じ手には難しい。

ただ、主人公のおぎんを演じた市川春猿の演技はこの距離の取り方にかなり苦労していた。観ている側も彼のコミカルな演技に素直に笑えない部分があった。それに比して、おぎんの仲間の遣手を演じた青柳喜伊子の演技にはまったく無理がなかった。この二人が掛け合うと、春猿のぎこちなさが際立ってしまう。春猿という方、本質的にマジメな方なんでしょうね。ずっと前に大阪新歌舞伎座の猿之助公演で観た折のイメージのまま。よくいわれていた「妖艶」という形容詞よりも「すなおに綺麗」と感じたので。素直な感じは今もそのまま。でもこういうちょっと目には「中途半端な」お芝居の「中途半端な」役どころというのは、そういう素直さが逆に邪魔をしてしまうんですよね。このおぎんは実に複雑な心理の綾を演じ分けなくてはならない役なのだ。哀しい境涯の中にどこかおかしみが漂っているキャラを立ち上げなくてはならない。その矛盾の中に退廃的な雰囲気がまとわりついている、そういう役柄なのだ。矛盾だらけの要素を一手に引き受けた役どころ、よほどの手練者、そして自信家でなくては演じないだろう。

市川月乃助はそれに対してなかなか健闘していた。この人は春猿と違って何かを担っているという気負いが少ないのだと思う。その分のびのびと演じられて儲けものをしている。頼りない、意気地なしの男を演じるのにぴったりだった。これが彼のニンなのかどうかは分らないけど、先ほどの「距離の取り方」にはかなり意識的だった。

前列2列目という「特等席」だったので、細かい表情、目の光、そして汗!などもありありとみることができた。これはちょっとした儲けものだった。