yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ポール ド・マンと水村美苗さん

世界最大の人文系学会MLA (Modern Language Association) は毎年12月27日から4日間北米のどこかの都市で開催される。去年はフィラデルフィアで、ちょうど滞在中だったのでけっこうまじめにセッションに出席した。ひところの盛況ぶりが信じられないほど、規模が小さくなっていたことに驚いた。もっと驚いたのは前衛的理論のセッションがほとんどなかったことだった。

今年の12月の大会は来年の1月に変更になり、今後もずっと1月に開催されることが決まったというのだ。2011年はLA ロサンジェルスで、6日から9日までである。発表はしないけど、行ってみようかなと思っている。冬は零下があたりまえというフィラデルフィアに比べると LAは暖かいから荷物も少なくてすむ。それにつれあいがUCLAの大学院に5年以上いたので年に2回は訪問していたこともあり、街はよく知っているのだ。

MLAで発表することは研究者のキャリアにとって大きな得点になる(なってきた)。アメリカの大学院に入る前も大学の教員だったので、何回かアメリカまで出かけて行ったものである。まだディコンストラクション(deconstruction) 華やかなりし頃で、ディコンストラクションの旗手デリダ(Jacques Derrida) とともにド・マンの名前が聞かれないことはなかった。まさにド・マンはポストモダンのフロント、イェール学派の祖だったのである。

でも、ド・マンほど亡くなってからの毀誉褒貶の激しい人はいないだろう。1983年に没したが、その後に彼が第二次大戦中にナチのシンパだったという「証拠」を示す文献がジャーナリズムの話題になった。ポストモダンに反感を感じていた人は手を叩いてよろこんだはずだ。 

どうしてド・マンを思い出したかというと、MLA から頻繁に出席の催促メールでくるからでもあるが、もうひとつは水村美苗さんの『私小説』を読み直しているからでもある。水村さんがイェール大学の大学院に在学していた間の指導教授がド・マンだったのだ。彼女の本の中では「大教授」としてよく言及されている。「故郷をもたず、どの言語も母語ではないのにかかわらず、それらの言語をいとも簡単に操る」大教授として出てくる。彼女自身が日本で生まれたものの幼少で両親とともにアメリカに渡り、そこで言葉で苦労しつつイェールという学閥の最高峰で学んでいるという背景。それに加えて、この「小説」の中の「私」がPh.D. (博士課程) も修了間近になって、さまざまな処理できない問題で悩んでいるという状況を抱えていて、それがド・マンが語らずとも抱えていた問題とシンクロナイズしている(ように読者にはみえる)。

実は『私小説』は向田邦子さんのエッセイ集と並んで、私がアメリカの大学院に在学中、いちばん共感し、慰められた本なのだ。私自身は彼女のような、そしてド・マンのようなデラシネではなく、彼らが抱えていた問題ほどの大きな問題は抱えていなかったにせよ、底なしの孤独と闘っていたという点は少しばかり似ているのかもしれない。

彼女が最近出した本『日本語が亡びるとき』がいろいろなところで言及されているのを読んだが、ピントはずれなコメントではないかと思ってしまう。未読なので、近いうちに読みたい。