yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『堀川波の鼓』in「七月大歌舞伎」@大阪松竹座 7月13日夜の部

仁左衛門が急病のため、主役の彦九郎を勘九郎が代役、勘九郎が演じるはずだった源右衛門役は隼人が代役した。

以下に演出、配役をあげておく。

近松門左衛門 作

村井富男 脚色

大場正昭 演出  

 

<配役>               

彦九郎妻 お種  扇雀          

小倉彦九郎    勘九郎(仁左衛門代役) 
彦九郎妹 おゆら 孝太郎                
宮地源右衛門   隼人 (勘九郎代役)   
お種妹 お藤   壱太郎         
文六       千之助
角蔵       寿治郎         
浄心寺の僧覚念  松之助         
磯部床右衛門   亀鶴  

Wikiからあらすじを引用させていただく。

鳥取藩士小倉彦九郎の妻・たね(種)は、夫の江戸勤番の折、酒乱のためにふとしたことから過ちを犯し、鼓師宮地源右衛門の子を身ごもる。彦九郎は広がった悪い噂を一喝し、たねの妹ふぢ(藤)も一計を案じて事を穏便に済まそうとするが、嫁ぎに出た彦九郎の妹ゆらが不義者の身内として離縁されたため、ついにたねに詮議が及ぶ。隠しきれなくなったたねは、夫への忠節を示すため陰腹を割り、非を詫びながら夫の手で絶命する。たねの妻仇を討つべく、彦九郎は復讐に燃える妹らを連れて宮地宅へ討ち入り、本懐を果たすのであった。

なお、「本懐を果たす」ところは、歌舞伎版では描かれない。以前文楽で見た折には、ここはきっちりと入っていた。

近松が人形浄瑠璃として台本を書いたという痕跡が、ここかしこに読み取れた。舞台を見ながら、「文楽で見るべき演目ではないか」との思いが拭えなかった。一言で言えば、いわゆる「昼メロ」のようなべったり感が役者の所作、口吻の端々にまといつき、後味が悪い。つまり、役者が演じるとどうしても雑味が出て、演技そのものが過剰(excess)になる。役者はそう演じているつもりがなくても、筋立て自体、役柄が過剰な演技を要求する。観客はどっぷりとメロドラマに付き合わされる羽目になる。これに閉口した。人形だったら、その過剰には虚構性が出るから、ここまでのべったり感は出ないだろう、別の効果があっただろう。

とにかく、扇雀の演技の過剰に辟易してしまった。お腹いっぱい、二度と見たくないという感じ。串田演出の歌舞伎では扇雀の出血大サービス演技は、そのあざとさで大きな意味を担うことになる。彼でなくてはならない味になる。串田演出が「虚構」の虚構を舞台に成立させるから。その一ひねりのおかげで、過剰は虚構の必須条件にまで高められる。でも、この大場演出はリアリズムの極みを追求しているがため(?)、過剰は下品になってしまう。舞台がリアリズムを超えるものでないのなら、わざわざ出かけてそこに居る意味はない。

ということで、非常に落胆した演目だった。

帰宅してから、YouTubeに1996年10月歌舞伎座公演がアップされているのを見つけた。演出は奈河彰輔氏。こちらの配役は以下だった。

彦九郎妻 お種  中村鴈治郎(3代目)

   

小倉彦九郎    片岡孝夫
彦九郎妹 おゆら 片岡秀太郎
宮地源右衛門   中村梅玉 
お種妹 お藤   中村松江
文六       中村扇雀

角蔵       中村鴈童
浄心寺の僧覚念  松本錦吾
磯部床右衛門   坂東吉弥

扇雀はここでは文六役だったんですね。私の中では過剰の代名詞だった三代目鴈治郎がなんと嫌味のない演技で、ねっとり、べったり感がない。ひところ彼のファンだったことを思い出し、やはり優れた役者だったのだと納得。

勘九郎の彦九郎は苦悩する重みが感じられなかった。あまりにも素直。最後の場面、彦九郎の屈折した想いはここでこそ演じ甲斐があるはず。しかし、それが伝わってこない。仁左衛門が昨日より彦九郎に復帰したとか。見逃したのが残念である。

劇中時折流れる鼓の音。今までそんなことを考えたこともなかったのに、「鼓って、なんて艶っぽいの!」と感心してしまった。それでこのタイトルになったのだと、いまさらながら理解した次第。

久々の松竹座での歌舞伎観劇。中村屋兄弟に幸四郎といった江戸役者と上方役者の競演に期待していたのだけれど、少し肩透かしを食らった気分である。