大衆演劇ではおなじみの「国定忠治」。虚実ない交ぜの様々なエピソードが展開する。清水次郎長と同じく、国定忠治については大衆演劇を見るまではほとんど知らなかった。あの桃屋のCMでの彼の「名ゼリフ」は知ってはいたのだけれど、その先に行っていなかった。
今まで見てきた中で、もっとも多かったのが「忠治」のコメディ版、「偽忠治」。その次が、追われの忠治と子分がこもっていた赤城山をおりる顛末。そして女郎屋に売られた百姓娘を助けるエピソード。モダン版では「殺陣師段平」」に出てくる段平が「演じる」中風になってしまった忠治の話。
これらのエピソードは勘太郎さんが演じた「忠治物語」にはすべて入っていた。いわば今までに舞台化、映画化された忠治の断片が再構成され、さらに再解釈されて提示されていた。これ、昨年の木馬館公演でも見ていたのだけれど、あまり印象に残っていなかった。強烈インパクトの芝居が他に多々あったからかもしれない。勘太郎さんご自身も不満だったようで、今回の再挑戦となった次第。
そして、それは確かに前のものとは違った、強烈な舞台となって帰ってきていた。登場人物は同じだし、エピソードも同じ。しかしである、後半部での演技の質というか濃さがまるで違っていた。はるかにインテンシヴ。勘太郎さんの「再解釈」のキモがどこにあるのか、はっきりと分かった。「百姓に尽くしても必ずや裏切られる。草花に水をやりすぎると根腐れするのと同じ道理」と予言した日光の円蔵。それに耳を傾けず、しっかりと裏切られた忠治。でもどこかで信じる想いがあり、それが多少は叶えられる。しかし、人間不信からは回復できないまま、生涯を閉じることになった、四一歳で。それを語るナレーション(真吾座長)が最後の総仕上げをしていた。単純なヒューマニズムを押し売りしないのが素晴らしい。それを演じきれる勘太郎さんが素晴らしい。ここまで演じる役の「哲学」に徹底してこだわるのがサジタリウス。
人間というものが清濁両方からなる存在であることを哲学として示した円蔵役の真吾座長。舞台の総監督はもちろん彼だろう。浅太郎役の蘭太郎さんが渾身の演技。その最期は涙なしには見られない。最愛の子分を手にかけざるをえない千代さんの演技も素晴らしい。これも涙なしに見られない。
終わったのがなんと10時!でも満足感でいっぱいだった。充実した時間を舞台と観客で共有でき、カタルシス度も最高だった。