yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能『野宮』(味方團師シテ)in 「第五回林定期能」@京都観世会館9月17日

台風18号が接近中ということで、迷ったのだけど出かけた。予定では12時に始まり午後5時頃に終了ということだった。能が『実盛』と『野宮』の2本、それに狂言、『魚説法』と仕舞が6本の充実プログラム。ただ、『野宮』は最後まで見ていない。前場のみ見て、4時半に退出した。残念。京都は平穏だったし、こちらも風は大したことがなかったけれど、買い物を済ませて帰宅するころにはかなり風が強くなっていた。

『野宮』は以前に三度見ている。つい最近では9月10日の「宇郄青蘭能之会」での宇郄通成さんのシテで。昨年7月の「井上同門会」では寺澤幸祐さんのシテで。さらに今年6月の「京都薪能」で河村晴道さんのシテでも見ている。こちらは「合掌留」の小書付きだった。今日のものは小書なし。

私の浅い能の観劇歴の中でも能の曲は重なることが多くて、一番多い『葵上』は4度ばかり見ている。奇しくも?シテが演じるのは双方ともに六条御息所。それほど書き手の、また演出者の、そして演者の意欲を掻き立てる人物なんでしょうね。三島由紀夫の『近代能楽集』中の「葵上」でも、魔性のとてつもなく魅力的な女性として描かれていた。この作品にはあからさまなほどにサイコアナリシスが援用されている。三島自身はサイコアナリシスを「嫌悪」していると宣言していたにもかかわらず。

能『野宮』も、精神分析学的解釈をしたくなってしまう作品。今日の舞台の冒頭で河村晴久さんのアカデミックな解説があって勉強になった。金春善竹の作であるという根拠を示されたのだけど、それを伺って目を瞠かれた思いがした。世阿弥の作品とは全く違った印象を受けるのは、善竹の能へのアプローチがかなり斬新だったからかもしれない。まだ私にはうまく言説化できないけれど、現代劇、それも心理劇に近い印象。今日は後場を見ていないのが本当に悔やまれる。おそらく前場のそれと違いずっと動きのある舞台になっていたはず。最後に御息所が救われたのか、救われないままに終わったのか、それを謎のままにする演出になっていたと推察している。河村晴久さんのお話だと、演出には最後に彼女が「救われた」とするものもあるとか。

シテの味方團さん、若い方なので動きが綺麗だった。その動きと対照的にじっと佇んでおられるところも御息所の品格の高さを表してみごと。前にみたシテでは前場で退屈したのだけれど、それがまったくなかった。身体の線が流れるように繊細だった。昨年見た彼の『葵上』の舞台が被ってきた。演者の人物解釈が余すところなく表われ出るのが御息所をシテにした作品なんだろう。

後半は機会があれば近いうちに見てみたいけど、そうはうまくはゆかないかも。そういえば、お兄さまの味方玄さんともかなり違っておられるけれど、身体の運び方の美しさは共通しているように思った。以下、今日の演者一覧。

シテ  味方團 
ワキ  原大 
アイ  善竹隆平
 
笛   藤田六郎兵衛 
小鼓  吉阪一郎 
大鼓  河村眞之介

後見  河村晴久 林宗一郎

地謡  國長典子 樹下千慧 河村和貴 松野浩行 
    浦田保浩 橋下光史 味方健 

藤田六郎兵衛さんが出ておられたのが、とてもうれしかった。最初の能『実盛』では大倉源次郎さんが小鼓担当で、このお二人の舞台というだけで、私のテンションはマックス。