yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦さんの「SEIMEI」と能の舞

6月にシカゴである学会の発表に『陰陽師』を「使う」つもりでいる。プロポーザルの提出が今月末でなので、まずそれを済ませてから、発表原稿のみならずジャーナル投稿用のペーパーも仕上げるつもりにしている。

もちろん羽生結弦さんの「SEIMEI」に触発されたのがきっかけ。最初は映画『陰陽師』中の萬斎さんの演技と羽生さんの演技との比較をするつもりだったのだけど、もっと原点に立ち返り、能の舞に羽生さんの演技が包括される可能性を探ってみようと考えている。羽生さんと萬斎さんの対談が方向性を決めてくれた。二人の対談の貴重な収録ビデオを貸して下さった方には、大いに感謝している。

羽生結弦さんと萬斎さんの対談、非常に示唆に富んでいた。ナマのアーティストの「がちのぶつかり合い」というよりも、羽生結弦さんが「謙虚に」能の大家の助言を仰ぐという感じだった。羽生結弦さんと萬斎さん、いずれも傑出した芸術家同士の「果たし合い」。その緊密さに、その充実度に驚嘆せざるを得ない。

そこから翻り、スケーティングという極度に制限された枠組みの中で、演技するのがどういう意味必然的に持たざるをえないのか。羽生結弦さんは常にそれを考えながら演技し続けてきたに違いない。彼のストイックなスケーティングとそこに籠められた世界観は他の極東の他国の人たちの理解を超えているだろう。能的世界観をとりこむために、羽生結弦さんが師と仰いだ萬斎さんが体現する能世界。その思想、世界観。そしてそれを具現化する舞台は、まさに日本芸能の根幹をなす。世界の不条理とそれと折り合いをつける、というか付けざるを得ないこところに、この世に住まうものたちの嘆きがある。。

しかも羽生結弦さんは震災をダイレクトに体験しているのだ。鎮魂の想いが深く深く浸透した「SEIMEI」。それを見る観客たちが感動しないわけ、あるはずがないじゃありませんか。