yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『三人吉三』小泉たつみ座長誕生日公演@浪速クラブ2014年5月27日夜の部

「たつみ演劇BOX」を率いる小泉たつみ座長の三十三歳の誕生日公演だった。座長の誕生日公演ということで、ものすごい混雑が予想されたので行くつもりはなかったのだが、最近になって演目が『三人吉三』と知り、どうしてもみたくなった。当日並ぶしかないだろうと考えて、午後4時の開場に間に合うようにと家を出たのだが、なんと!浪速クラブ前にはすでにものすごい数の人。整理券は午後2時半から配られていたらしい。私の番号は89番。立ち見になることを覚悟した。そういえば「たつみ演劇BOX」の去年6月の朝日劇場公演の千秋楽は立ち見だった。それでも札止めが出ていた。

結局出入り口を潰して作った急ごしらえの一番後ろの奥まった席になった。それでも座れただけありがたい。浪速クラブは従業員の方々が親身で親切。いつも観客のことを最優先してくれる。その姿勢に昔の小屋の良さを感じる。

観て良かった!よくぞここまでというくらい、たつみさんを始め、ダイヤさん、小龍さん、そして座員一同の並々ならない熱意、積まれた稽古がみごとに結晶した舞台だった。歌舞伎の『三人吉三』にひけをとらなかった。たつみさんが劇中で「歌舞伎、『三人吉三』の向こうは張れないかもしれないけど」と、来月6月のコクーン歌舞伎の『三人吉三』に言及するくだりがあったけど、どうして、どうして、十分張り合ってゆけますから。こういうところに彼の役者としての矜持をみた気がした。この1月梅田呉服座での『石川五右衛門』の舞台にも大衆演劇の役者としてのたつみ座長の矜持をのぞき見た気がしたけれど、今回のはそれを超えていた。とてもうれしかった。

大衆演劇の路線として、三つの行き方があるように思う。一つは旧式な芝居の型、仕様、ルールを出来るだけ忠実に再現してゆくというもの。それには「大衆演劇の伝統的」な演目のみならず、歌舞伎ソースの古典も含む。もう一つは、旧作であってもそれを思いっきり換骨奪胎、モダナイズして舞台化するというもの。あるいは新作として立ち上げるというもの。最後が前二つの間を採るもの。地域地域の、あるいは各年代の観客をみながら、その期待に沿うように二つの間の距離を縮めたり、離したりしながら融通無碍に変えてゆくというもの。九州系劇団は一つ目のパタンに固執するあまり、時代遅れになっていっているのではないか。観客動員で成功している劇団、それは例外なく三つ目のやり方を採用している、そして(なぜか)関西に拠点を置く劇団である。方針はそれぞれちがっていても、目指すところは一ところ。観客を楽しませるということ。古典を舞台に乗せるにも、現代の観客に合うように工夫をし、時には大胆に変えるのを躊躇わないこと。

この日の演目、『三人吉三』、あまりにも意欲的。本音をいえば、「無理じゃない?」と思われる作品。歌舞伎なら一ヶ月程度の稽古期間があるから、あるていど完成体として舞台に乗せられるだろうけど、毎日日替わりメニューで芝居、舞踊を演じ続けなくてはならない大衆演劇の劇団、圧倒的に稽古時間が少ない。だから、ふつうに考えれば、「無謀」もいいところである。なにしろあの黙阿弥原作。口調はいいものの、やたらと美辞の多い、凝った文体の、しかも文語の台詞。主要三人の台詞の量も膨大である。歌舞伎役者ですら、プロンプターがはり付いているのに、それをとちらず、きちんと感情移入をしながら演じきったというのは、いくら賞賛しても賞賛足りないほど。ホント、恐れ入った!

しかも!7幕構成はそのままで、制限時間(約90分)に合わせ、短くするところは短くして、それでもリーズニングをきちんとさせたというのにも、ただただ感心した。なにしろ(もういちど!)黙阿弥の原作である。人物間のあの込み入った関係。「実は・・・」が大きな意味をもつ世界。歌舞伎の通しで見ても何度も見なくては、あるいはあらかじめ予習しておかなくては到底だれがどうなっているのか、チンプンカンプン。それでも歌舞伎なら通しだと時間はこの二倍近くとれるから、問題はあまりないだろう。でもこの時間制限の中で、よくぞここまでなっとくできるような構成にできたと、ただ感嘆。これは脚本を書いたたつみさん、小龍さんの知性に負っている。以下が今回の公演が忠実に守った7幕構成のあらまし。

大川端庚申塚
割下水伝吉内
本所お竹蔵
巣鴨吉祥院本堂
裏手墓地
元の吉祥院本堂
本郷火の見櫓

これを舞台に「完成体」として乗せたんですよ!

私は(歌舞伎を見始めた)1993年5月の歌舞伎座「團菊祭」でこれを「通し」で見ている。和尚吉三を幸四郎、お坊吉三を團十郎、お嬢吉三を菊五郎だった。伝吉は17世羽左衛門、十三郎は萬次郎、おとせは芝雀だった。歌舞伎のデータベース(これ、ほんとうにありがたい)で確認した。吉三三人は誰がやったのかは覚えていたのだけど、あとの配役が曖昧だった。そのときに衝撃を受けたのが、和尚が自分の弟と妹を「畜生道」に堕ちた科で手にかけるというもの。しかも舞台が墓地というのが強く印象に残った。また寺の欄間から娘姿の菊五郎が顔をのぞかせるシーンも鮮明に覚えている。それともちろん、『櫓のお七』を模した最後の「火の見櫓」のシーン。永劫変らない「人間の性」の理不尽さを描いて秀逸なのに、西洋演劇とは違う歌舞伎独自の世界観を垣間みた気がした。

本公演の配役は、和尚吉三をたつみさん、お坊吉三をダイヤさん、お嬢吉三を小龍さん。

台詞もパーフェクトだった。そりゃ、細かく見ればいろいろあったのかもしれないけど、いくら減らしたとはいえあの分量!とくに和尚吉三の量は半端ではなく突出していた。お坊吉三も同じ。しかもこの「お坊」さん、他の演者さんのカバーまでしていたので、さぞ大変だっただろう。お嬢吉三も男/女のあの中途半端な魅力をうまく出していた。どちらかというと男が演じる方が楽だろうけど、小龍さん、がんばっておられた。たつみさんは姉弟三人がうち揃って三様の「吉三」を演るというところに、強い意味をもたせたかったんでしょうね。だからその点でもほんとうに意欲的。成功させたのにも兄弟間の絆を感じた。この日のお客さんがいちばん感動したのは、おそらくその点では。

これを機にと思って、図書館から原作を借り出して読んだ。『歌舞伎全集』(東京創元社)の第十巻(平成3年増刷刊)に収録されている、『三人吉三廓初買』。めくるめく台詞の連なり。目も頭もくらくらしてしまう。黙阿弥独特の世界。古典に思いっきり惑溺できないかぎり、こんな大層な作品を舞台に乗せるという挑戦はしないでしょうね。さすがたつみさん!

それと、浪速クラブの棟梁にも拍手を送らなくてはならない。「火の見櫓」のシーンに櫓を組むなんてこと、あの浪速クラブで考えられます?限られた装置を最大限使い、みごとな櫓が組まれていた。櫓があるとないとでは、芝居のインパクト度が俄然違う。八百屋のお七ならぬ、お嬢吉三(本名お七)が櫓太鼓を叩くところでは、涙が出そうになってしまった。