『R III』、もちろん、英語字幕なし。昨日のオペラでは驚いたが、これは「当然」という感じ。イタリア語ができないのがほんとうに残念だった。とはいえ、役者のすごさは言葉がわからなくとも十分伝わってきた。イタリア語で原作のような韻を踏ませるのをどうしたのか、それが十分に効果をあげていたのかは確かに気になったが、それを超えての迫力、魔力はこちらに迫ってきた。日本語でシェイクスピアをやるとほとんどのケース失敗することと、いやが上にも比較してしまった。英国でなくとも欧米の多くの国でシェイクスピアを上演するのは失敗することがまれなのかもしれない。ことばが文化であること、欧米が共通した文化圏にあることを認識した一夜だった。
原作の重要なセリフはおそらくそのまま(イタリア語に置き換えて)使っていたのだろう。でも完璧にアダプテーション。衣装も15世紀と現代とのハイブリッド。舞台装置は日本の小劇場系に近いミニマリズム。舞台中央に紗のカーテンが引かれていて、それによって舞台奥と手前が区切られている。この工夫は去年にフィラデルフィアでみた芝居でも使われていたっけ。そのカーテンの中央が開いていて、そこからキャラクターが前に来たり、バックにひっこんだりする仕掛け(「仕掛け」という大仰な感じではないけど)。
役者は以下。
Alessandro Gassmann, Mauro Marino ,Giacomo Rosselli, Manrico Gammarota, Emanuele Maria Basso, Sabrina Knaflitz, Marco Cavicchioli, Marta Richeldi, Sergio Meogrossi
主役のリチャード三世はAlessandro Gassmannだった。この人、並はずれて背が高く、それだけでも十分に畸形的。足を引きずって演じるので、よけいにそれが際立っていた。出てきただけで、目が彼に集中する仕組み。他の役者も彼にまけないほどの一癖も二癖もある風貌。美男・美女はなし。
それにひきかえ(?)観客は美男・美女が多かった。若い二十代、三十代のカップルが圧倒的多数。中高年のカップルもちらほら。そこに男性同志、女性同志で来ている若い観客が混じる。ブロードウェイを別にして、アメリカでは演劇を見に来る客層は決まっているのだが、それと同じ空気を感じた。もちろん地元民(つまりミラノ市民)。日本の小劇場にきている(ある種の)若い人とも決定的に違った知的な階層。また、昨晩のスカラ座観客とも違った。まあ、観客のほとんどが観光客というスカラ座は特殊なケースなんだろうけど。アジア人は私を除いてゼロ。でもじろじろ見たりはしない。アメリカの大学街(私の行った範囲ではプロヴィデンス、ケンブリッジ[MA]、ニューヘイヴン、エヴァンストン、シアトル、フィラデルフィア)等で出くわした観客と共通点があった。ここにいると、どこかほっとする。ことばが分からないなりに、十分に楽しめた。収穫も大きかった。
ホテルに帰ったのは11時を少し回っていた。