yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『GOEMON 石川五右衛門』in 二月花形歌舞伎@松竹座

行く予定ではなかった。というのも、出演する若手役者にそう食指が動かなかったから。でも何となく気にはなっていた。「GOEMON」なんて、ローマ字表記にするところなど、なにか尋常ならない気構えがびんびん伝わってくるじゃありませんか。とはいえ、今までの愛之助の舞台で印象に強く残ったのがなく、敬遠する気持ちが強かった。座頭での今回の公演だが、大変だろうとは思いつつも、「少々荷が重いのでは」と思い込んでた。それに壱太郎、先月の新橋演舞場の「曾我対面」で失望したところだったので、今さらという気持ちだった。

嬉しい「裏切り」が待っていた。今までにみてきたいわゆる新しい試みをさらに超えて、新境地というか、未踏のディメンションに突入したという感じがする。それは亡くなった勘三郎、それに最近では新猿之助などが挑戦している路線と連動するものだった。否、それらよりもずっと過激、前衛的だった。これぞカブキですよ!でも、ただ先祖還りをしただけなのかもしれない。歌舞伎の精神に立ち戻ったということで、きっと歌舞伎の神さま(きっといますよね)はよろこんでいることでしょう。先月の猿之助の『義経千本桜』夜の部にも起きたカーテンコールが、今日もあった。愛之助が宙乗りで引込んで、おひらきとなるところが、客席の拍手が鳴り止まず、それに応えて彼が舞台に再登場。お礼の言葉を述べた。客席と役者が一体になった瞬間だった。

今日出ていた若い役者のほとんどを先月「浅草歌舞伎」でも観た。でもそのときとは違って、全員がそれぞれの個性で輝き、奔放に自己主張していた。これは驚きだったし、新しい歌舞伎が生まれたことを確信するに十分だった。

随所に今まで私が観てきた大衆演劇で使われていた手法がみられた。新しいカブキをめざすとなると、その挑戦の中で生まれでてくるアイデア、工夫が、そしてそれらを具現化する演出が、共時性ゆえに似た形態に成って行くのかもしれない。若い人が上からの重しをはねのけ、自由闊達にのびのびと自己表現をしているという点は高く評価されるべき。今日の歌舞伎が洗練、ソフィスティケイトされていたのは、専属の脚本家、演出家を抱えているからだろう。大衆演劇の方もこれからよりグレードアップしていくことを期待したい。

それにしても歌舞伎に今新しい胎動のようなものが起きているのは確かだ。国立劇場文芸部の「古典発掘、再演」の試み。新猿之助、海老蔵、菊之助等のそれらへの参加。染五郎、愛之助の新境地。それに加えて、若手たちの成長と躍進。それらが一体となり、うねりとなっている。うれしい。

先月の松竹座と違って、客席には空席がちらほら。愛之助がカーテンコールで登場した折に、「どうかご近所の方々に『面白かったよ』と宣伝して下さい」といっていた。こういう口上は大衆演劇ではよく聞いたけれど、そういう意味でも、演者と観客との距離が近いのだろう。あるいは大阪だからか。パワーをもらえる舞台、楽しい舞台、だから千秋楽までにきっと観てきて下さい、とは僭越ながら私からのお願い。

以下、公演チラシ

以下がサイトから転載した配役と解説。

片岡愛之助宙乗りにてつづら抜け相勤め申し候

                   石川五右衛門  愛之助
                  カルデロン神父  松 也
                      石田局  梅 枝
                    出雲の阿国  壱太郎
                    加藤虎之助  種之助
                  石田三成/お菊  梅 丸
                       友市  吉太朗
                名古屋山三/北政所  吉 弥
                     豊臣秀吉  翫 雀

                    フラメンコ  佐藤浩希

GOEMON(ごえもん)
 時は天正時代、豊臣秀吉が天下を統一し、戦乱の世もおさまり、信長の時代に布教が始まったキリスト教も各地に大聖堂を持つようになった。そんな秀吉の世を憎んでいるのが、秀吉に滅ぼされた明智光秀の家臣四王天但馬守の娘石田局。父の仇を討つ機会をうかがっていたが、キリスト教の教えに触れ、秀吉への憎しみを忘れるようになった。それは、カルデロン神父の熱心な教えによるものであり、いつしかカルデロン神父と石田局との間に恋が芽生え、友市が誕生した。しかし、神父としての禁忌を破ったカルデロンは神父を退き、親子三人で生きる道を選ぶ。

 七年の歳月が流れ、親子三人幸せに暮らしていたところ、秀吉が切支丹禁令を行う。カルデロンは国外追放となり、秀吉はかねてから想いを寄せていた石田局を我がものにしようと、聚楽第に呼び出す。石田局は覚悟を決め、秀吉を討とうと決意するが遂げることは出来ず、命を失ってしまう。

 さらに歳月は流れ、秀吉は奥方北政所の目を盗み、今度は都の人気者出雲の阿国を寝所に侍らせようと呼び出す。そこへ、親の仇を討つべく大泥棒・石川五右衛門と名のるようになった友市が現れ、秀吉の家臣加藤虎之助や石田三成らの手を鮮やかな手口でかいくぐり、阿国を救い出し、秀吉の鼻をあかす。実は阿国の夫である名古屋山三も明智光秀の家臣安田作兵衛の息子であることが判明、三人は共通の敵秀吉に立ち向うべく手を組む。

 一方、五右衛門は、お菊ら女猿楽の登場で、人気に翳りがみえ始めて苦悩する阿国に、新しい踊りのヒントとして、父カルデロンの国スペインの踊りを教え、阿国もそこから新たな発想を得て、再起をはかる。そうしている間にも、五右衛門を捕える包囲網はだんだん狭まっていき...

すべてが和洋の混淆態。それでいて舞台装置そのものは歌舞伎舞台とは違って究極まで簡略化。ポストモダン的。そんな舞台で歌舞伎なんですからね。演出の水口一夫の冒険に一票。

舞台上には「鉄骨」を組み合わせた躯体が二体。このシンプルな仕掛け、それがときには教会の礼拝堂に(ライトが当たると躯体に埋め込まれた十字架が浮かび上がる)、秀吉の聚楽第に、最後にはせり上がって南禅寺山門へとかわる。形態はシンプルでも、というかシンプルだからこそ、照明の工夫で自在に形をかえることができる。変幻自在。

舞台が開くと、そのシュールな躯体上方に「GOEMOM」のネオンサイン。まるでNYのバー。そこに黒装束に笠を被った人物たちが。隠れキリシタン信者であると同時に黒子を模しているのだろう。ここにも時空をこえた工夫が目一杯詰まっている。冒頭からして、なにか起こりそうな予感。すばらしい演出。バックにミサ曲が流れている。神父姿の松也さん登場。赤毛の鬘につけ鼻。これって笑っていいんでしょうか。彼の(あるいは演出家の)お茶目さを感じた。石田局(梅枝)は正統派(?)の衣装で登場。優雅。

場面替わって、聚楽第。秀吉に召された石田局が仕舞を舞いつつ、秀吉に仇討ちを仕掛ける場面での梅枝の能装束も、そしてその舞も本格的だった。背景の音楽はもちろん能舞台のもの。

第一場でのフラメンコダンスの挿入は全体の統一から考えると不必要だったのでは。でもフラメンコダンスを「指導」してくれた人に場を提供するというのも(大衆演劇ではよくあることで)悪くないかも。元OSKのダンサーの方たちの参加もその流れの中にあった。かなり違和感はあったのだけれど、その違和感が触媒になった面も否めないから。勘三郎が『夏祭』でNYのポリスを使ったのよりはずっと流れに即していた。つまり「ここまでやるか」の度合いが高い分、異物もすんなりと場に納まるということ。

壱太郎の出雲のお国が出色だった。松也、愛之助、そして壱太郎が踊るフラメンコ。壱太郎は飛び抜けていた。とくにフラメンコを踊っているうちにそれが彼女独自の舞踊に替えられて行くというところ、もう一度みたいくらいすばらしかった。この踊り、大衆演劇の舞踊と近似性を感じた。いわゆる旧来の歌舞伎舞踊ではない。とはいえ、歌舞伎舞踊そのものも結構新しい(六代目菊五郎の創作によるものが多い)んですからね。壱太郎の新路線として定着して欲しい。

座頭の愛之助も冒険度の高さでは負けてはいなかった。第一幕、第二幕と二度も宙乗り。一度目は「葛籠抜け」。二度目は鷹に乗って。「ここまでやるの」の大活躍だった。「南禅寺山門」での見得が特によかった。金属躯体がせりあがり山門を模した形になるところ、これだけでも圧巻だが、その上に鎮座した五右衛門が「絶景かな」というところ、彼の歌舞伎役者としての実力と矜持が余すことなく出ていて、それ以上の圧巻だった!

革命的に斬新な舞台演出だった。それは舞台装置に、音楽に、照明にもいえた。音楽は和洋混淆。ミサ曲あり、聖歌あり、フラメンコ音楽あり、能楽あり、歌舞伎下座音楽、義太夫語りあり、三味線あり、それらすべてが使われた。全体としてみると不思議と調和していて、その摩擦熱のようなものが観客にもびんびん伝わった。照明は歌舞伎のものではもはやなかった。劇団新感線のような演劇態との共通性を感じた。この過激さが装置、音楽とマッチしていた。そういや劇団新感線も「五右衛門もの」(「五右衛門ロック」)を演っているんですよね。

役者もほぼ全員が若く、そのエネルギーを思う存分発散させて八面六臂の活躍ぶりだった。第二幕の終盤、五右衛門と秀吉の捕方との立ち回りでは愛之助を初めとする若手陣が客席を(二階席まで)飛び回り(これもまるで大衆演劇)、客サービスも全開だった!

このサービス精神、歌舞伎本来のものなんですよね。床の間に飾る鑑賞用のみの古典なんてものは観たくないですよね。歌舞伎の原点回帰の場に立ち会ったという気が強くする舞台だった。

この『GOEMON』は、平成23(2011)年11月に大塚国際美術館(徳島県鳴門市)にある、バチカン市国のシスティーナ礼拝堂を模したシスティーナホールでの「システィーナ歌舞伎」で初演されたという。これをさらに「深化」させたというか、より歌舞伎に近いバージョンにしたということだろう。またこの公演が平成14年に旗揚げした<平成若衆歌舞伎>(「若衆歌舞伎」が禁止されてから、ちょうど350年だったことに因んだという)の活動の延長線上にあるという。

若手役者を中心とする歌舞伎の新潮流、それが若い観客を巻き込んで新しいカブキをつくりあげるという現場に立ち会い続けたい。