yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

竹中労著『美空ひばり』

竹中労(1930年5月30日 - 1991年5月19日)のことを知ったのは、美空ひばりについてまとまったものを書こうと考えているときだった。美空ひばりは長い間私にとって「俗悪」の代表のような存在で、自分自身が彼女と「出逢う」経験をするとは全く予想だにしていなかった。だがアメリカに長期滞在した折、ある日、突然美空ひばりが聴きたくなった。すでに彼女はこの世の人ではなかったし、彼女の歌だってそんなに知っていたわけではなかった。だからなぜそういう気分になったのか、よく分からない。でも異国でいると、自分の根っこが常に不安定な状態に置かれることになる。それまで自明としてきた自分自身の、おおげさにいえば存在が揺らぐ。そしてスキマのようなものが自分と世界との間にできたような気がする。そのスキマをなんとか埋めようとしたとき、無性に美空ひばりが聴きたくなったのだと思う。他の歌手ではなく、美空ひばりなのだ。日本の大衆文化を語るとき、他の芸能関係者は俎上に上がらずとも、彼女を抜くことはできない。

竹中労もひばりと「出逢った」経験を語る。戦後闇市が立ち並ぶ東京の町を荒れた心を抱えて歩いていたとき、パチンコ店の店先でがんがん鳴り響いていたひばりの「りんご追分」が聞こえた。それが彼のすさんだ心にスコーンと入ってきたのだという。店先で立ち止まって聞き惚れていると、涙が止まらなかったと彼は書いている。その時点でおそらく竹中はひばりに化想したのに違いない。彼の魂にひばりの歌は食い込んだのだ。

その後、週刊誌記者兼ルポライターになった竹中は、有名芸能人のゴーストライターとなって生計を立てることになる。ひばりの「手記」なるものも彼が書いた。そういう縁もあり、ひばりの母に気に入られる。そこからひばり親子と彼とのつきあいが始まる。しかし彼が発表した記事にひばりが広域暴力団の山口組組長、田岡と親交があると書いたことがひばりの母の逆鱗に触れ、以降関係は切れる。が、来日したルイ・アームストロングとひばりを会わせたいというひばりの母からの頼みを受けることでつきあいは再開、ひばりの死のときまで細々ながら続くことになる。

ひばりのことを書いた記事は本になり、そして彼女の死後補足改訂されて再出版された。私が美空ひばりについて本を書くつもりだと友人に話したところ、それなら竹中労の「ひばり伝」は必読だと強く薦められた。読んで、ノックアウトされた。今まで読んできた伝記とはまったく異なっていたから。

あれほどの偉業をなしとげたのだから、ひばりもその母も普通の人たちではない。尋常ではない「狂気」を秘めた人たちである。またこの二人が巷間でいわれているような「双生児」ではなく、ピンと張った緊張関係の中にあった。そういう関係に竹中は入らざるをえなくなる。「怖いものみたさ」っていうところもあったのだろう。でも竹中の狂気をひばり親子のそれは凌いでいた。はじめから負け戦ではあった。でも竹中には「りんご追分」の原体験は常に生きていた。ひばりに彼は強烈に惹かれ続ける。そのどうしようもない俗悪、成り上がり趣味をひっくるめてである。

竹中労の父は竹中英太郎といって挿絵画家として有名だった。彼自身の弁によると「お坊ちゃま」として幼少の頃は過ごした。反抗児だったとはいえ、東京外国語大学にまで進学している。在学中から何度も捕まってついに除籍になり、食べて行くためにいわゆる「三流週刊誌」に記事を書くことで糊口をしのぐのだが、彼が書く記事には筋が一本通っていて、それで読者を多く獲得することになる。ルポライターの創始者でもあった。姿勢は常に反権力で、直感的にインチキな輩を嗅ぎ分けた。インテリ左翼が彼の最も嫌った人種たちだった。大江健三郎然り、石原慎太郎然り、江藤淳然り。

彼の並外れたパワーは行間から伝わってきて、読む者を圧倒する。その純真さも情熱も奔流になってどっとこちらへなだれ込んでくる。そのドンキホーテぶりに、負け戦と分かっていて権力とあくまでも闘い続けるその姿勢に心は激しく揺さぶられる。どこまでも虐げられた人、日の目をみることのない人とともにあった。名実ともに。

彼が1991年に亡くなったとき、横浜駅のシャッターがおりた壁に銀色のペンキで「竹中労死す!」と大書されたという。山谷と並ぶ関東窮民街の労働者の手になるものだったという『ルポライター事始』より)。

決定版ルポライター事始 (ちくま文庫)

決定版ルポライター事始 (ちくま文庫)

以下はyoutubeの映像。

これをみても、彼がいかに真の意味で知識人だったことが分かるだろう。