yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『インターメディアの詩学』by ディック・ヒギンス

リビングに本を出しておくのがイヤなので、私の本の大半は寝室の書架に詰め込んでいる。つれあいの分は彼の書斎(実質ものおき)の書架に入れてあるが、そこを最近は私が新たに買ってしまう本が侵蝕しつつある。寝室の書架はギュウギュウヅメ、探しものをすると並びが入れ替わり、後ろの本(二重陳列にしているので)が前に出てきたりする。この本もそうやって目についた。目覚めた目に飛び込んできた。でも、そういう再発見は運命的なことが多い。そのときに関心があるものが、ぱっと目につくには深層心理的にはそれなりの理由があるから。

演劇をふくめて広い意味でのパフォーマンスが最大の関心事になってもう久しい。この本を買ったのは多分1992年、もしくは1993年ごろだったと思う。ブラウン大学に研究員で1年いたときに、World Wide Web(www) の元になったハイパーテキスト/ハイパーメディアを開発したネルソンの拠点がブラウン大学だったこともあり、彼の「ザナドゥ計画」についてキャンパスでしばしば耳にした。今のこういうインターネットの世界の基本を創った一人がネルソンだったのである。当時、そんなことは全く分からず、それでもなにかとてつもないことが進行していると、ワクワクした記憶がある。それで帰国してからその方面の本を集めたのだが、その中の一冊がこれだった。中身を読んでもあまりにフューチャリスティックで理解できなかったので、書棚に眠ることになったのだろう。

そして深層意識ではこの本との再会は用意されていたのだと思う。ちょうど1週間前(Time flies!)にプラハのチェコ国立近代美術館でモダンアートの展示をみたのだが、かなりの展示物が絵画、彫刻、詩、音楽といった複数のメディアの混合体だった。ほとんどがチェコの作家のものだった。わたしの許容範囲は1970年代ぐらいまでの前衛アートで、それより新しい展示物をみるのは正直きつかった。でもなんとなく気にはかかっていた。

この翻訳本、検索すると初版(1988年)のみでそう売れなかったようで、もちろん絶版。今日のメディア間の融合を予見していたようなヒギンスの卓見が読める。

著者ディック・ヒギンス(http://en.wikipedia.org/wiki/Dick_Higgins
)は新しい芸術運動として展開した「フルクサス」のメンバーだった。これは美術、音楽、詩、舞踏など広い芸術ジャンルにまたがる運動で、世界各地でイベントを開催し、世界に挑発的メッセージを送り続けたようである。ただ、その主催者のジョージ・マチューナスも亡くなり、ディック・ヒギンスも1998年に亡くなっている。

ヒギンスは、この書を書いた当時(1984年)の「ポストモダン」と銘打った芸術活動、とくに批評家のそれをこき下ろす。彼は名だたる批評家の講演に出かけて行って「あなたの仕事の官能性はなんですか」なんて、突拍子もない!質問を講演者にぶつけている。楽しげに反応してくれたジャン・フランソワ・リオタールは合格、当惑したポール・ド・マンは落第だったようだ。そりゃ無茶でしょ、ヒギンスさん。困ったド・マンの顔が見えるようだ。

中身がとてつもなくオモシロイ。ほんとうに予言者だったのだと思う、ヒギンスという人は。生まれるのが40年ばかり早すぎたのだ。

彼によると、ポストモダンの「黎明期」はベケット、ジャン・ジュネ、そしてリビングシアター運動に始まり、その後大きな転換期が1958年頃にやってきた。それがメディアの融合だったという。いわゆるパフォーマンス芸術がそのとき生まれるが、批評家はそれに遅れをとったのだという。古い芸術表現がacting であるとすると、新しいパフォーマンスはenactingであるという。鑑賞者は作品を通してその作品のゲシュタルト(形態の総合体)までみすかすので、複数のレベルで「見る」という行為があることになる。それを彼は enactingと呼んだ。ジョン・ケージの音楽はその見本だという(道理でマトモにケージを聴いても感動しなかったわけだ)。

彼が挙げたenacting の例を以下に引用する。

「私は見知らぬダンサーのパフォーマンスを見る。彼女の動きに感情移入する。その形式は私を当惑させ、挑みかかってくる。彼女はなさねばならないがゆえに、今していることをしているのだ、と私は感じる。私はこの強迫観念の源を探す。それは新しい運動言語の中に見つかるだろうか?私は話すところまではいかないにしても、その言語を理解することを学び、豊かになる。私は何度もそこに戻ってくるだろう。プログラムにある名前はもはやたんなる女性の名前ではない。それは今や、あの言語の一部分の名前、新たな満足の軌跡の上の一点の名前なのである。(中略)このダンサーは、彼女の心から私の心へとひとつの転位をもたらしたーーそれは彼女の言語の中にある何かの例である。私はそれを受けとる。おそらく私が意味深いと思っているものは、彼女の意図とは違っているだろうが、それはたいして重要ではない。より大切なのは、この言語そのものが私を豊かにしてくれたということだ。彼女の地平が私の地平と出会い、二つの地平はいくつかの点で融合したのである。それで十分だ。」

こういう体験は優れたパフォーマンスの現場に立ち会ったとき、必ず起きることである。単独の芸術活動ではおきない「融合」がパフォーマンスでは起きるということだ。それはインターメディアの世界がそこに開けているということでもあるだろう。

ほんとうに示唆に富んだ書で、今頃になって読み返すとは自分が情けない。自分の思考が熟していなかったということだろう。

4人での共訳だが、とてもこなれた訳である。原文がおそらく平易な英語だと思われるが、それを難しく学術書っぽくしていないところがいい。原文も読まなきゃ。

調べたところ日本のアマゾンでは取り扱っていない。アメリカのアマゾンでも原書は絶版。中古も入手難。ただ1997年に再版されたものは入手できることが分かった。早速注文した。