yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ドナルド・キーンさんと三島由紀夫

JBPressのObituary (訃報欄)でGeoffrey Bownas教授の死去を知った。記事では次のようになっていた。

「戦後英国の日本学をオックスフォードとシェフィールドの両大学に起こして基礎を固め、たくさんの学者を育てながら、政治権力とは終生無縁、弟子達に囲まれ学統の頭目としてふんぞりかえることもなかったのがジェフリー・ボウナス教授である。陸軍にいたときに日本語を強制的に学ばされることになった」

英国で日本文学研究がもっとも進んでいるのはオックスフォード大とシェフィールド大ということになっているが、その礎を築いたのがボウナス教授だったということを、初めて知った。アメリカでいえばドナルド・キーン コロンビア大学名誉教授に当たる方だろう。ボウナス教授の名前はペンシルバニア大の大学院にいるこから知ってはいたが、著書を読んだことはない。でもキーン教授のものは英語、日本語両方でかなり読んだ。といっても、やはり日本語での方が多いけれど。

アメリカの大学院の博士課程に入ろうと考えたとき、日本でもっとも知名度が高い、そして内容の充実した研究機関はパーバード大とコロンビア大だと聞いていたので、どちらにも願書を提出したけれど残念ながらどちらもうまく行かなかった。ハーバードはDHLで出した願書が期日までに届かなかったようで(もっとも届いていても、私のGREの成績では門前払いだった可能性大だけれど)ダメ、コロンビアは修士課程から入らなければならないということで諦めた。コロンビアで残念だったのはキーンさんの授業を受けることができなくなったことだった。

キーンさんが三島由紀夫と縁が深いのは、キーンさんの著作から、そして三島自身の著作から知っていたので、生前の三島について話が聞ければと思っていた。機会は永遠に失われてしまったけれど。でも、2001年だったかにコロンビア大で三島由紀夫関連のシンポジウムがあり、そこに他の四人のスピーカーに混じってキーンさんが出られ発表もされた。私の指導教授がそれに出席するように勧めてくれたので、フィラデルフィアからニューヨークまで出向いて行った。

Ph.D. (博士) 論文執筆中だったので、そういうシンポジウムでの討議は参考になるはずだった。でも出席者のほとんどが学究の人ではなく一般人だったので、スピーカーたちの「濃い内容」の発表について行けなくて、討論とは到底いえないものとなり、一方通行で終わってしまっていた。フロアからの質問も下世話なもので、がっかりした。三島のような「過激」な人、しかもあのような死に方をした人をテーマにすると得てしてこういう結果になりがちである。

とはいうものの、キーンさんの話は面白かった。やはり直接に三島本人をよくご存知なので、興味深い話を聞けたのは収穫だった。私の博士論文にはあまり役には立たなかったけれど。キーンさんが三島を畏敬していたということは良く分かった。

三島のエッセイに、彼がニューヨーク滞在中に世話になった友人として出てくるのがキーンさん本人だけれど、それらのエッセイからも推し量られるように、三島はキーンさんにかなりの「迷惑」をかけたようである。キーンさんがご自分の随筆に書かれているように、三島のようなお金に不自由していない人と、(キーンさんのように)「一介の大学教師」とは自由になるお金の額に差があるのは当然である。それを三島はなかなか理解できなかったようである。シンポジウムでも三島のこういう面を「愛情を込めて」話された。

このシンポジウムのあとで近くのレストランに行ったら、たまたまシンポジウムに参加していた方々と出くわした。そのうちの年配のカップルがキーンさんのNYでの住居(アパート)が同じビルだと教えてくれた。どうもそういうアカデミックな人たちが多く住んでいるビルのようである。私も住んでみたいものだと、本気で羨ましく、妬ましかった。とても高くて、買えそうもなかったから。