yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『失われた時を求めて』

「備忘録」、あるいは日記は自分の過去を現在に重ね合わせて反芻する作業ではないかと思います。「失われた時を求めて」書き綴るのが日記のような気がします。

もちろんこれはフランスの作家、プルーストの小説の題名でもあります。彼自身のライフヒストリーを小説化したもので、現代小説の祖形とでもいうべき大作で す。そしてジョイスの『ユリシーズ』と並んで、とてつもなく難解な小説として「有名」でもあります。高校生のときに翻訳で読みましたが、もう最初の方から 理解困難になり、途中読み飛ばしながらなんとか最後にたどり着いた記憶があります。『ユリシーズ』の方は日本の大学の英文科の学生だったときは恐ろしくて 近寄れなかったのですが、アメリカの大学院のフランス人教授の「批評理論」のクラスで課題だったので仕方なく読みました。たった一日の出来事を扱っている のですが、これもジョイス自身の「失われた時を求めて」だったのではないでしょうか。

日記は記憶という厄介なものを扱っています。記憶の中で反芻される出来事、事件は「事実」ではありません。当人が解釈し、再生させたものです。語り手の心 理状況を反映して肥大化したり、矮小化されたり、歪められたりしています。その特徴を極度に拡大し、語り手の心理の深層を暴いてみせているという点で、プ ルースト、ジョイスは現代小説の祖形を築いたのです。批評用語ではそれを「意識の流れ」(Stream of Consciousness) と呼んでいます。

プルーストやジョイスと並べて自分を出すのはおこがましさの極みを承知でいえば、現在書いているこの日記も、私にとっての「失われた時を求めて」なんだろうナと 思います。昨日、今日、自分自身の体験を書いてはいますが、そこには常に過去が入り込んでいます。それは避けがたい必然です。記憶はそういう形で増幅され ながら、そしてある種の美化を施されながら再生し続けるのでしょう。

プルーストの『失われた時を求めて』は何度も映画化されています。あのヴィスコンティは自身の手で映像にするのを切望していたのに果たせなかったのです が、それを受けて1999年にマルコビッチが映画化しています。日本ではアート系シネマで公開されたものの(多分)人気がなくて、短期間の上映に終わった のではないでしょうか。

私はフィラデルフィアでみたのですが、そのときは結構長い期間上映されていました。英語タイトルは Time Regained と なっていました。その中のまさにヴィスコンティばりの豪華な室内丁度、装飾、それにそこに醸しだされる濃密な雰囲気と時間に圧倒されました。何人かの友人 とみたのですが、彼ら(アメリカ人、台湾人、イスラエル人)が絶賛したわりには、傑作とは思えませんでした。でも当時(ベルエッポック)の世相風俗、そし て退廃ぶりを知るには映像の力は絶大でした。