yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「noh play -TAMURA-」in 「東アジア文化都市2017 京都」@ロームシアター京都 メインホール

「京都の若手能楽師現代美術家による作品」と副題が付いている通り、能は能でも新しい形態のもの。「田村」はもともと40分のところを半分の20分に短縮。企画は京都芸術センター。「能x現代美術」のコラボレーションとして作成された。美術はヤマガミ ユキヒロ氏が担当。以下が能の演者。シテが一人だったのか、それとも何人かで演じたのかが、いまだもってわからない。だから一応「シテ/地謡」として記しておく。席があの大ホールの一階、かなり後ろだったため、演者の顔をみて確認できなかった。オペラグラスを持って行くべきだった。

とはいえおそらくシテは、浦田 保浩氏、浦田 保親氏お二人で担当された?残りの八人の方々は地謡を担当されたのでは。

シテ/地謡
浦田 保浩  
浦田 保親  
片山 伸吾  
林 宗一郎 
大江信行   
橋本光史 
田茂井廣道 
深野貴彦
宮本茂
河村和貴

ワキ 有松遼一

笛 竹市学
小鼓 曽和鼓堂
大鼓 河村大
太鼓 前川光範

ほとんどの演者をここ3ヶ月余りの能公演で拝見している。とくに先日の(ブログ記事にはしていなけど)大江能楽堂での「大江定期能」、「難波」で見ている。ということは、京都在住の若手能楽師の方々が総出だったということ?

若々しい声調が快かった。でも一番ステキだったのは演出の工夫。背後の縦三つに分けた映像が映し出されるスクリーン、その真ん中に能舞台が映し出されている。「清水寺の創建をめぐる伝説が説かれている」ということで、この能舞台清水寺のもの。能舞台の左には桜の木が、右には松の木が映し出されている。

演目は「田村」。勝修羅能の一つ。タイトルから推察できるように、後シテは「東国征伐」に出かけた征夷大将軍、坂上田村麿の霊。ただ、前場の段階ではシテは少年。明るい昼間の能舞台がくっきりと映し出されている。左側に桜、右側に松の木。のどかな昼間の清水寺。少年が桜を愛でて舞う。そして舞終わると映像の能舞台に吸い込まれるかのごとく、消えて行く。

そして後場。後シテが登場するのは(橋掛かりを想定した)左手からではなく、正面に映し出された能舞台から。能舞台に映し出されるシテの煌びやかな姿。それがズズッと前に向かって来る。そして映像の中の舞台で舞う。やがてその映像のシテは、左手から実際のシテが登場するとかき消え、実際のシテにすべてがバトンタッチされる。

非常によく練られた工夫。映像が効果的に使われている。映像を使うことでそれが実際の能舞台の邪魔をするのではなく、逆に理解しやすくなっている。初めて能を見る人でもテーマが掴みやすくなっている。能では情景に付いてはほとんど触れられることはなく、一体どういう場面なのかは見る側の想像力に委ねられている。それをここまで明らかに示されるのはイヤという人もいるかもしれないけど、「新しい形を示した」点で、意味があるように思う。特に能そのものに馴染みのない人には「親切」な工夫。というか、「能」ではなく、「能x現代美術」の可能性を示したということだろう。今まで見てきた限り、こういう試みは失敗することが多いけど、これは良かった。

また後場は昼間の清水から一転、夜の暗い能舞台が映し出されている。こういうのも普通は見る側の想像力に委ねられているわけだけど。

演出としてもっとも優れていると感じたのは、第三場とでもいうべき場が付いていたこと。それは映像の中。霊は消え、夜の帳は上がり、昼間の清水の光景が現れる。観光客が三々五々やって来る。亡霊の棲まうあの世と観光客を含め観客の今いるこの場との隔たり、そして親和性。能が、そしてそれが表すのが「過去」のものではなく現在に生きるものであることを、鮮烈に示していた。またそれは能の「精神」の具現化でもあっただろう。