yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

バレンタイン能「班女」@山本能楽堂2月14日

松竹座の第二部が終わってからこちらに移動。松竹座でもバレンタインに因んだ(?)観客へのプレゼントがあった。主要役者さんの額縁に入った舞台写真で、役者さんの数のみ。そういうんじゃなく、チョコレートの一片でも全員に配った方が良かったのでは?いっそのこと、なくても良かったようにも思う。

能公演の方は「バレンタイン」と銘打ってはいたけど、プレゼント配布にではなく、男とそれを思い続けた女が結ばれるという筋書きに、「バレンタイン」の意味づけをしていた。この趣向は面白い。

能の「班女」を見たいとずっと思い続けていた。三島由紀夫の『近代能楽集』のうち、「綾の鼓」と並んで好きな作品だから。三島の「班女」は能とは異なる意外な結末が付けられている。ひねりが効いた作品。それと比べると、能の「班女」は、まさにバレンタイン的。なぜかは以下の「the能.com」の「演目紹介」に明らか。

美濃国野上の宿(今の岐阜県不破郡関ヶ原町野上)に、花子という遊女がいました。ある時、吉田少将という人が東国へ行く折に投宿し、花子と恋に落ち、お互いに扇を交換して、将来を約束して別れます。それ以来、花子は少将を想って毎日扇を眺めて暮らし、宴席の勤めに出なくなります。野上の宿の女主人は、人から班女※というあだ名で呼ばれる花子を苦々しく思い、宿から追い出してしまいます。

東国からの帰途、吉田少将は再び野上の宿を訪れますが、花子がすでにいないと知り、落胆します。失意のうちに京の都へ帰った少将は、糺ノ森の下賀茂神社に参詣します。その場に、偶然にも班女すなわち花子が現れます。宿を追い出された花子は、少将に恋焦がれるあまり、狂女の班女となってさまよい歩き、京の都にたどり着いていたのです。

恋の願いを叶え給えと神に祈る班女に、少将の従者が声をかけ、面白く狂って見せよといいます。班女は、その心ない言葉に誘われるように心を乱し始めます。少将と取り交わした形見の扇を手に、あてにならない少将の言葉を嘆き、独り身の寂しさを訴えながら、舞を舞います。扇を操り舞うほどに心乱れ、班女は、逢わずにいればいるほどつのる恋心を顕わにして、涙にくれるのでした。それを見ていた少将は班女の持つ扇が気になり、扇を見せるよう頼みます。黄昏時の暗い中、少将と花子はお互いの持つ扇を見て、捜し求めていた恋人であることを確かめ、喜び合うのでした。

能のパフォーマンスが始まる前に、シテの山本章弘氏から「班女」というタームの由来についての解説があった。これも「the能.com」から演目紹介に付いていた註を紹介しておく。

※班女:中国・前漢の時代に成帝の寵妃であった班婕簱(はんしょうよ)のこと。趙飛燕に寵愛を奪われたことから、秋には捨てられる夏の扇に自らをたとえて嘆いた詩「怨歌行」を作った。以来、捨てられた女のことを秋の扇と呼ぶようになったという。この故事をもとに、離れ離れになった遠くの恋人を想い、扇を眺め暮らす花子にあだ名がつけられたという設定。

捨てられた女を表す「秋の扇」が謡の中にもなんども出てくる。女の哀れさを謡で歌い上げればあげるだけ、そのあとの女と男の再会、そしてハッピーエンドが生きてくる。まさにバレンタイン。この日の演者は以下。

シテ(花子)   山本章弘
ワキ(野上少将) 福王知登
ワキツレ(従者) 喜多雅人
ワキツレ(従者) 廣谷和夫
アイ(宿の超)  善竹隆司

シテの抑えた舞を見ながら、そこに三島由紀夫の「班女」を並べている自分がいた。なんとかその間の齟齬を「解釈」しようとする自分がいた。三島はなぜあんな結末にしたのだろう。また三島「班女」中で花子の面倒を見ている実子っていうのは、能の「班女」では誰に、何に当たっているんだろう。と、「綾鼓」を見た折には感じなかった抵抗感があった。花子は能のそれよりもずっと純化された形で提示される。アイコンといっていいほどに。狂った女、外見からも狂女とわかる見苦しい女。それなのに、というか、それだからこそ、彼女が表す純な念に近い恋慕が、もはや人間界を超え出て、イデアに近いものとして示されている。少将への強い想いがここまで「純化」されると、もはや実際の人物としての少将は不要ということだろう。

対する実子は画家。現実を描くのではなく、そこに表象されるイデアを描くのが仕事。だから彼女が描く花子は現実の花子ではなく、彼女が像として「理想化」した人物。もはや人物でもなく、一つの表象。捨てられた惨めな狂女ではない。三島「班女」の最後は、現実が絵に描かれた表象に破れた瞬間を描いている?画家である実子の「私は何も待たない。すばらしい人生」というのが、実子の画家としての勝利宣言。

能の「班女」を見ながら感じていたのは、実子は花子のダブルではないかという感触。一人の人間を芝居の中で描くとき、見える人物以上のものを舞台上に示すのに、なにか工夫がいる。その見える人物以上のものを、別の人物、カウンターキャラとして創出した?その人物を画家としたのがニクイ。ニーチェおたくだった三島ですからね。実子の「勝利宣言」をそのまま受け取るわけには行かない。むしろその裏にあるものが、立ち上がってくるはず。

で、今改めて能の「班女」を「読み直そう」として、新たな気づきが。この日の演能でもっとも印象的だったのは、冒頭のアイ狂言。遊女花子を追い出す女郎館の女将のサマが演じられる。ちなみにこの役の善竹隆司さんが、とてもよかった。この女将が三島班女の実子なのかもしれない。狂気を「忌むべきもの」として集団から排除する世間一般の目。この女将の行為は普通の反応なので、不思議はない。この通俗的な人物を、三島は画家というイデアの信奉者の地位に「昇格」させた?

能の「班女」はハッピーエンドで、心安らかに見終えるはずが、三島の所為で(?)心をかき乱されてしまった。『近代能楽集』のうち、実際の能として見ることができたのは「葵上」、「綾鼓」、そしてこの「班女」のみ。「邯鄲」、「卒塔婆小町」を見ていない。近いうちに見る機会があればいいのだけど。