yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

溝口健二の『残菊物語』

結局論文は『残菊物語』と『浪花エレジー』で書くことにした。溝口のこの2作品、公開年度は1936年、1939年と3年しか違わない。

溝口は女性を描かせたら右に出るものがいないほどの「フェミニスト」監督だけど、この二作品はまったく対照的な女性が主人公である。『残菊』では歌舞伎界の御曹司のためによろこんで自己を犠牲にするマゾヒスティックな女性を、『エレジー』では男社会のなかで押しつぶされそうになりながらも、逆に男を手玉に取って生き抜くサディスティックな女性を描いている。


「二人の主人公はまったく違ったタイプと見えているが、実は裏表になっている」というのが私が論文で分析、証明する内容である。実は溝口、1936年に別の作品、『祇園の姉妹』を出している、そこで描かれているのが、対照的な二人の姉妹で、それはそのまま『残菊』、『エレジー』に重なる。しかもこの作品では『エレジー』の主人公を演じた山田五十鈴が妹役を演じている。つまり、溝口の中では、これらの作品で取り上げた両極端のタイプの女性がリンクしていたのに違いない。

『残菊』、『エレジー』に組み込まれている歌舞伎、浄瑠璃を仮説の裏づけに使うつもりである。『残菊』では歌舞伎の『四谷怪談』、『関の扉』、そして『石橋』が、『エレジー』では浄瑠璃の『新版歌祭文』中の「野崎村」の段が使われていた。つまり劇の中に劇を入れ込むという「劇中劇」構成になっている。もちろんそれぞれに意味があるのである。

『四谷怪談』は信用していた夫から無残に裏切られる妻が、『関の扉』では大悪人の大伴黒主と争うミステリアスであると同時にアグレッシブな桜の精が、そして『石橋』では二人の獅子の精が登場する。それぞれが『残菊』では意味を持っている。

「野崎村」も悲劇である。思い焦がれた久松にわざわざ浪花から会いにやってきたお染、しかし久松はそのとき世話になっていた久作の娘お光と許婚になっていた。しかし結局お光は身を引くことになる。ということになると、「野崎村」の三角関係とマゾヒズティックなお光の行動は『エレジー』の主人公、アヤ子の立場を分析するのに役立つだろう。

ここから分かるのは、溝口が劇中劇の作中人物のキャラクターを、そしてその運命を、表象するのにきわめて意図的、かつ効果的に利用しているということである。

それら劇中劇の人物が指し示しているベクトルの方向は両作品ともに、サディズムマゾヒズムに転換する方向である。

こういうことを論じるつもりだ。締め切りが24日よりも延びそうなので、助かる。本当は英語で書きたい。ここ3年はずっと英語で書いてきたので。英語で書かなければ実際は意味がない。発信するのを世界に向けてと考えれば使用言語は当然英語になる。ただ、時間がつんでいるので、日本語で書く可能性が高いけど。