yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

西国三十三所巡りを始めた

巡礼というと四国の遍路八十八霊場巡りが有名であるが、こういうことにまったく疎かったのが5年前までの私である。その頃、ペンシルベニア大時代の指導教授の一人、訪日中のC先生と茨木市民センターで能を観た折に「同行二人」という語を知った。彼女のお連れ合いがちょうどその折アメリカ人知人と四国巡礼をしていたので、彼女のスマホにこの札がぶら下がっていた。読み方を間違え、アメリカ人の彼女に「訂正」されたのが、恥ずかしい。この話を連れ合いにしたら、散々バカにされた。悔しい!

この「四国遍路」に再び出逢ったのがつい最近。亡くなった父方伯父遺品の一つ、遍路札を納める木箱に書かれた遍路の決まり文句「南無大師遍照金剛」によってだった。箱の裏面には伯父本人直筆の署名が墨で書かれていた。

そもそもこの木箱が私の手元にやってきたのも、ちょっとした偶然である。最近、父方物故者の位牌を引き継ぐことになり、父方の伯父が遺した遺品(?)の一つに四国巡礼のお札を納めるこの木箱がその位牌共々私の手元にやってきたから。本来なら、とっくに「処分」されていたはずのものが、どういう弾みか遺っていた。伯父(加えてその妹たち)の写真はすでに処分されてしまっているのが、とても残念である。実家の仏壇にはあったので、うっすらと記憶には遺っているのではあるけれど。 

ただこの箱は空である。遍路札は一枚も入っていない。この札に明記された日の数ヶ月後に伯父は29歳という若さで帰らぬ人となっている。当時の業病、結核だった。おそらく四国遍路は志途中で頓挫した可能性が高い。しかし、伯父が箕面の勝尾寺に行ったことは残された写真とそこに付けられたメッセージで明らかだった。これは私の記憶にしっかりとしまいこまれてはいたけれど、現物は紛失していて、今となっては確かめようもない。

ということで、「四国遍路」ならぬ「西国三十三所巡り」をたどるのに、最初の札所は箕面の勝尾寺にした。続けて中山観音、そして一昨日は総持寺への参拝を済ませた。果たして伯父がこの二つの札所を訪れたのかどうかは、定かではない。それでもその可能性に想いを馳せ、伯父の強い願いに自らを重ねる。伯父の悲劇的な生涯を考えると冷静ではいられないけれど、それでもなお彼の想いの行く先に私の想いも重ねたいと願う。当時伯父は今の泉南市に在住だった 

泉南から行ける範囲といえば、四国よりも西国巡礼だっただろうと推察している。これからどれほど残りの「33ヶ所」を制覇できるかは「神のみぞ知る」ではあるけれど、伯父の想いに自分のそれを重ねつつできる限りクリアしたいと考えている。京都が意外と多いので、2.3日で主要寺を回りきれないだろうか?とはいえ、こういうことを願うこと自体、邪道なんですね。わかってはいるのですが、それでもやっぱりあまりにも早く亡くなった伯父の無念さを知りたいという想いが抑えきれない。