yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

スタイリッシュだった恋川純座長の『森の石松』@新開地劇場 8月12日昼の部

大衆演劇では十八番の『森の石松』。とくに「閻魔堂最期」はいくつもの劇団で見てきた。その中でもっとも印象的だったのは都若丸劇団のもの。もっともこれは舞台を見ていなくて、DVDでみたもの。死んだと見えた石松がまるでゾンビのごとく何度も「息を吹きかえして」、都鳥一家と立廻りをするというもの。石松が斬り刻まれる様に重点が置かれたサディスティックな場面が展開する。こういうサディズムは私の好みではないものの、東映の役者さんたちを十人近く配した立廻りは、並外れていた。おそらくそれを際立たせるための「嗜虐」だったと思われる。他劇団でも都若丸ヴァージョンを真似するところはあるようだけど、立廻りでは若丸劇団に敵うところはないだろう。中途半端な猿真似に終わっているのでは?

他劇団でみてきた普通の「閻魔堂最期」ははさほど印象に残っていない。「都鳥一家による卑怯な騙し討ち」に比重がかかった舞台になっていることが多かった。石松という人物の造型ができていなかった。恋川純さんが立ち上げた「石松」は、従来のそれとひと味もふた味も違っていた。どこがかって?それはまさに石松がなぜここまで人の心を打つのかという点を、きちんと描けていたから。

石松は次郎長親分の代参で金比羅さんへ参った帰り途に、都鳥一家に裏切られた末惨殺されるのだけれど、その最期の凄惨な場面をハイライトさせるのはなぜか。惨めさの極致を崇高化するというのは、たしかにテーマのひとつではあるだろう。でもそうするためには、なにかの裏付けが要る。恋川純座長はそれを石松と次郎長との「男の約束」に収斂させていた。喧嘩っ早い石松を慮って、次郎長は石松のドスを紙縒りで結束し、刀を抜けないようにしていた。刀を抜きさえすれば、あそこまで相手に斬り刻まれることなく済んだ。石松は次郎長との約束があったため、ドスを使うことができなかった。純座長は(他座長とは異なり)石松がいまわの際まで次郎長との約束を貫こうと、煩悶、苦悩する様子を何回となくみせる。そこが上手く描けているがゆえに、石松最期の凄惨な場への観客の感情移入がより深くなる。お涙頂戴の悲劇芝居では泣かない私も、思わず涙していた。

石松の「犠牲」は最終場面で贖われることになる。次郎長は子分たちを従えて都鳥一家への復讐を果たす。ここは極めて短く様式化された舞台になっていた。笠を目深に被った次郎長一家が舞台に並んでいる。後ろの幕が上がるとそこが果し合いの場面に変わる。次郎長を演じるのは、これまた純座長。次郎長一家は都鳥を討って、石松の敵をとる。再び舞台に整然と並ぶ次郎長一家。笠を被り、股旅姿で、清水へと帰ってゆく。この時は劇場通路が使われていた。純座長が口上で仰ったところによると、この場面をどう組み立てるかは、客演の東映陣にも参加してもらって決めたという。見事な様式化だった。石松の最期もくどくないのはある種の様式化を図ったからであるし、この最終場面もそれをサポートするものだった。とてもスタイリッシュで感心した。

 スタイリッシュとはいえ、こういう大衆演劇的な芝居のもつ情念のようなものを捨象しているわけではない。それをギリギリまで抑え込み、その上での様式化。これがとても現代的だった。広沢虎造の浪曲を前面に流すのではなく、バックには「オリジナル・サウンドトラック龍馬伝Vol.1」(作曲:佐藤直紀)からの「Ryumaden」がかかっていた。リサ・ジェラルドが歌っている。地の底から湧き出るかのような意味不明(inarticulate)な歌であると同時に、なんとも新しい。これを使うという斬新!常々その手法に感心、感動してはいるのだけれど、改めて純座長の底力を見せつけられた気がした。それと東映殺陣の方々の活躍も素晴らしかった。とくに都鳥三兄弟の末弟を演じられた役者さん(お名前を失念)。 

様式化の中にも溢れ出る情念といえば、舞踊ショーにもそれはいえた。15曲を超える舞踊中ほぼ7割に彼自身が出ている。その構成はまさに土俗と斬新との競合になっている。感動した舞踊はなんと言っても純座長の「日本の名将」(三波春夫)。袴で踊られた。新しいところでは「ファイト」(中島みゆき)。新旧の組み合わせが見事。お父上の初代純さんの舞踊(曲名がわからず)にも感心した。