yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

恋川純座長が主役を張る『泥棒哀歌』@京橋羅い舞座5月21日

このお芝居自体はいくつかの劇団で見ています。もちろん恋川劇団でも。昨年9月には恋川劇団から独立された碧月心哉さんのところで見たばかり。

純座長演じる盗人一味の小頭(こがしら)で本名、新三の悲劇性をより際立たせる演出に工夫が凝らされていました。新三の元弟分の丹三が、盲目の老母の手を引いて去ってゆく場面なのですが、その背に最期の呼びかけをするところ。崩れ折れるのを棒にすがって立ち上がり、渾身の力をふりしぼって、「おっかあー!」と絶叫します。降りしきる雪を全身に浴びながらの絶叫。上からはスポットライト。立ったまま、幕。この構図は大衆演劇ではよく使われる手でもあります。以前見たときよりも、「倒れては立ち上がり、倒れては立ち上がり」の繰り返しが倍になり、雪の分量も何割か増しだったような。ただ、何度も見ていると、悲劇性そのものに手垢がついてしまい、ちょっと興ざめになってしまうのも事実です。ふとどき者の私など、何分かは居眠りしていました。

大衆演劇でよくある「ヤマアゲ」といわれる手法で、恋川劇団はこの手をあまり濫用しないのが良いところだと思っていたのですが。特に純座長はお若いので、先代、先先代といった先輩たちの十八番であるこういう手法があまりしっくりこない。想像するに、今の観客もこういうド悲劇を評価しないのではないでしょうか。いわゆる大衆演劇特有の「ダサさ」でもあります。もちろんダサいのは意味がある場合があるのですが、それをappreciateする客層は徐々に退出して行っているように感じます。九州系劇団はこういうヤマアゲが既定路線ですので、客数が落ちているのでは?見ていないので、正しい判断かどうかはわかりませんが。純座長の極めて新しい感覚、そしてアンテナの張り方を高く評価していますので、いっそのこと換骨奪胎、デフォルメ版を創られても面白いのでは。

 舞踊ショーの個人舞踊では、やっぱり純さんのものが立ち、女方ともにピカイチでした。全身から溢れる猛烈パワーは彼の若さというより、キャラなんでしょう。浴びると元気をもらえます。何度も出てこられて、どれも素晴らしかったのですが、一つ挙げるとすると、「無法松の一生」でしょうか。口パクにいささかの乱れもなかったです。しかも感情が高ぶって行くサマを舞踊だけでなくバチさばきでも表現されて、お見事。 

それと、お父上の初代純さんの舞踊、「二度惚れ酒」(大衆演劇舞踊の定番です)が秀逸でした。あのイキさ。色気。色気と言っても押し付けがましくなく、なんともはんなりしていて、さすがの年輪を感じました。見惚れてしまいました。ご子息お二方はまだまだだと思わせる舞踊、絶品でした。

ラスト舞踊の「お梶藤十郎」も絶品でした。天井から、何枚も垂れ下がる布の工夫。これらはお梶が藤十郎に宛てた文(ふみ)を表象しているのでしょう。また彼女の叶わぬ恋を貫く、恋に殉じる潔さを示してもいます。この世では虚しい結末を迎えざるを得ない恋。その恋を、天から降り注ぐ美しい布で持って言祝ぐ場面に、なっていました。性能のよくないスマホで撮ったのでピンボケですが、その感じだけも。

 

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