羽生結弦さん、そうです、あなたしかいません。羽生結弦選手の「演じられるのは僕だけ」、このことばはけっして奢りとか高慢ではない。フィギュアスケート選手としてだけではなく、「巫女」( medium )としての自身を自覚していることの証。哲学的な重みのある表明。彼が陰陽師の安倍晴明に自身を重ねるのはある必然だったような気がする。
彼は常に自身の体験を深化させ、それを一つの表現体として自身のスケーティングで示して来た。震災の過酷な体験を「花は咲く」の演技に。そして今回はカナダを含めた異国での異文化体験を「陰陽師」に。これらは挑戦というよりも必然であり、それが自身がほんとうにやりたいことであると胸を張っていえる人なんですよね。この雄々しさ(ちょっと他の表現が思いつかないので)に泣けてくる。
今回の彼の「自覚」の表明、それは日本的なものをいかに示すかということ。スケート選手として、それも世界一のスケート選手としてその演目に入れてきたのは、彼の資質を最大限活かしたものだった。でもそれは今までの西欧世界的基準にあわせたものだった。そうでなければ、また点数も稼げなかっただろうから。
彼が他選手と決定的に違っているのはその次の段階。彼が芸術家だとあらためて認識させられた。去年12月にベルリンで観たチェコの音楽家、ヤナーチェクのオペラ、『死者の家より』。今まで観てきたオペラとは決定的に違っていた。それはチェコ人ヤナーチェクが「西洋としてのチェコ音楽」ではなく「スラヴ民族としてのチェコ民衆の音楽」という表現領域」に彼自身のアイデンティティを見出したから。*1このオペラはヤナーチェクのウィーンでの体験の一つの結実だったのだろう。羽生結弦選手のカナダ体験の一つの結実が今度の『陰陽師」なのかもしれない。
「陰陽師」の挑戦、自身がスケート史上、日本人として何が遺せるのかということを強く意識し始めていることを窺わせる。この点も他の選手と彼とが一線を画している点。20歳という若さでこの域にまで来ている彼にただただ尊敬の念を抱く。それとともに、実際に「完成体」のそのスケーティングを観てみたいと熱望する。
*1:内藤久子 『チェコ音楽の魅力 スメタナ・ドヴォルジャーク・ヤナーチェク』 東洋書店〈ユーラシア選書 5〉、2007年。