yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『天竺徳兵衛新噺』in 「11月花形歌舞伎」@明治座11月22日夜の部

これは鶴屋南北作(1804)で、主人公の徳兵衛を務めたのはもちろん新猿之助。公演ちらしは以下。

スケールが非常に大きく、筋も込み入っているので、一見ではかなり分りづらかった。朝4時起きでの東京遠征、午後にはかなり眠気が襲ってきたので、正しい評価ができているかが怪しいのは事実なのだが。原作者の南北の満を持した奇想天外な趣向にもかかわらず、本音のところではあまりワクワクしなかった。いままでの亀治郎の舞台ではなかった経験である。澤瀉屋を中心に若手を多く起用しているので、もっと舞台に躍動感があってもよかったのではと思ってしまう。蝦蟇の登場、また終幕近くの宙乗りはたしかに楽しめたのだけれど。

「世界」はいわゆる英雄譚。二国をまたにかけてという点では近松の『国性爺合戦』(1715)と共通している。また、英雄譚の点では為朝を主人公にした三島の『椿説弓張月』とも通じている。趣向、つまりおおまかな筋は、英雄の冒険を描くものである。この作品の場合は、英雄がたまたま悪者である点が普通の英雄譚との違いだろうし、南北の諧謔精神の嚆矢でもある。南北は先行する英雄を扱った歌舞伎を転覆させているわけで、いかにも文化文政期の退廃ムードがそこには反映している。そのひねり、屈折、逸脱といった工夫は、おそらくはある種の俗っぽさ、野卑さとして舞台に出てこなくてはならないのだろうけど、その点でかなりもの足らなかった。上品すぎた。大人しすぎた。爛熟の極みにみられる退廃の雰囲気はあまりなかったように思う。これを出すのは難しい。若手の多かったこの舞台でこういうのは、「ないものねだり」以外の何ものでもないのを承知で、やっぱりそう感じてしまう。これは知識だけではない、いわゆる「ずた袋」にあたる役者としての経験がものをいう。それが滲み出てきて、すごみとなって舞台上の役者の身体に具現化するのだ。その点では、新猿之助はあまりにもまだ若い。それとあまりにもインテリだ。

観客の多くがツアーバスでやってきた年配の団体客。この雰囲気も影響しているのかもしれない。ロビーはまるで修学旅行を思わせる喧噪。これはこれでいいのだけれど、やっぱり歌舞伎観劇には「ハレ」の要素が欲しい。

猿之助は立ちよりも第二幕での小平次女房、おとわがよかった。悪婆はふつうどこかに男を思うゆえの弱さをもっているのに、この悪婆はほんとうのワル。それを上手く出していて、オカシミがあった。

役者では若手で「!」と思った人が二人いた。一人は先月の歌舞伎公演で感心した中村亀鶴。重要な役どころ、奴磯平を演じていた。もう一人はおとわの義理の妹、おまきを演じた中村米吉。可憐な娘役という役どころ、ちょっと突き放して演じているようにみえたのが、よかった。

蝦蟇、宙乗り、早替わりと、ケレン全開の舞台だった。もちろん面白かったのだけれど、こういうケレンは何度もみると飽きてしまう面もある。ムズカシイ。装置で感心したのは『山門』の南禅寺山門の場を思わせる凝り方で、楽しかった。