yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

夏休み文楽特別公演第2部「古市油屋の段」及び「奥庭十人斬りの段」in『伊勢音頭恋寝刃』@国立文楽劇場8月3日

住大夫さんが病気休演で、お弟子さんの文字久大夫さんが「古市油屋の段」の切を務められた。文字久大夫さんが切のような大役をされるのを初めて聴いた。文字久大夫さんは呂勢大夫さんとはおそらく同輩で、文楽での経歴も近いと思うのだが、呂勢大夫さんがわりと早くに大役を務めるようになったのに、文字久大夫さんは合唱のときに入っておられることが多く、「どうなってんの」なんて思っていた。私が文楽を見始めた頃、大阪の文楽劇場のみならず東京の国立小劇場にも文楽をよく観にいっていた。ホテルに帰るのに地下鉄半蔵門駅のホームで電車を待っていたら、呂勢大夫さんと文字久大夫さんが仲良くまるでビジネスマンのようないでたちで歩いてこられるのに二度ばかり出くわした。まだお二人ともお若くて、生き生きと楽しげで、そしてオトコマエだったのを懐かしく思いだす。

文字久大夫さんの切の語り、もうほんとうに驚くほど住大夫さんに似ていた。ただあそこまでのだみ声ではなかったけど。語りのときの少し首を上前に伸ばすさま、そのときの抑えた声の調子、溜めた音をぐっと飲み込む感じがそっくりだった。そういえば、呂勢大夫さんもお師匠の呂大夫さんに似ていたのかもしれない。呂大夫さんの語りを毎月のように聴いていたころは、その特徴にあまり注意をはらわなかった。その上私がアメリカに行っていた間に呂大夫さんが亡くなってしまわれたので、その辺を直に確認する機会が失われてしまった。そこでちょっと心配になったのが、呂勢大夫さん、文字久大夫さん、お二人に後継者がいるかどうかである。大夫は大変な重労働、その割にはあまり報われることのない芸術家である。歌舞伎役者が華やかな私生活を送っているのとは大違いである。その上歌舞伎のようにその家に生まれた男子を後継者にするのではなく、素人を養成所で訓練、教育して大夫に育て上げるので、それにかかる時間、費用も生半可なものではない。

『伊勢音頭』は歌舞伎の出し物の中で私が一番好きな演目の一つであり、とくに福岡貢は最も好きな役柄である。それ以上にぞくっとするのが仲居の万野で、万野の「貢いびり」は何度観ても面白い。このあたり、歌舞伎の方がよりビジュアル度で勝っているかもしれない。万野役の玉三郎がニヒルに黒っぽく塗った唇を歪めながら、ネチネチと孝夫の貢を苛めるさま、今でも目に浮かぶ。

でも万野を遣った紋壽さん、貢を遣った玉女さんも歌舞伎に負けていなかった。語りを大夫に任せた分、より効率的な身体表現に集中できたからだろう。また肉体的にもまだ余裕がおありなので、よりダイナミックな動きもスムースだった。お紺役の文雀さん、さすが品が良かった。とくに最後に貢を正気に還らせるところ、なんとも凛として美しかった。

「奥庭十人斬りの段」の切は津駒大夫さんだった。この方も『合邦』の中を語った松香大夫さんと同様、優れた大夫だと常々思っていたのに、中やら切やらの重要な語りを担うことが少なかったように思う。今回晴れて(?)務められたのだが、期待通りの充実度だった。津駒大夫さんも美声ではなくどちらかといえばしゃがれ声だが、それが女性を語るとなんともカワイイ女性になるのが不思議。

なんてとりとめもないことを考えながら、そして過去の演者のことを重ね合わせながら聴いていた。主要な大夫さんが病気というは残念ではあるけれど、そこに今まで重要な役を担わされていなかった「若い」大夫さんが入るのも人の新陳代謝という意味で重要なことなのかもしれない。