yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『髑髏城の七人』は「歌舞伎」か?

一昨日のブログには「いのうえ歌舞伎、『髑髏城の七人』」を観た折に感じた不満を書いた。追随を許さない人気を誇る劇団新感線、創立時には「小劇場」の反体制的遺伝子をもっていたのかもしれないが、いまや完全に商業ベース化してしまっている。有名なタレント役者をそろえて人気取りをしているとしか思えない。脚本、演出の「凝り方」は前のブログにも書いたが、それは過去の作品のアリュージョンである。もちろんそうでない作品なんてものは戯曲のみならず小説であれ詩歌であれ存在しないのではあるけれど、それをコラージュにするときにそれらのアリュージョンが組み合わされる必然−−それは軸になる思想といっても良いが−−が観客側に伝わらないのであれば、それらは単なるご都合主義の「パクリ」でしかない。

「無界」の住人とか村人といった弱者を助けるために体をはる主人公捨之介、そして極楽太夫といったヒーロー、ヒロインの姿にはアニメに登場するヒーロー像が被ってくる。でもそれはなんとチンプなことか。アニメだと比較的すんなりと受け入れられるヒロイズムも、舞台に載せると一挙に薄っぺらいものになってしまう。

『髑髏城の七人』ではそれを防ごうとして一応工夫はしている。見方の裏切り、寝返り、そして改心といったいわば「歌舞伎の常套手段」を援用している。でもせっかく舞台にあげるのであれば、もう一工夫必要だったのではないか。一工夫というのは背骨になる、大げさにいえば「思想」である。それがまったくなかった(としか思えなかった)。これが決定的に欠けていた。宝塚や劇団四季だったら、私はここまで期待はしない。初手からないのが分かっているから。ただ、お気楽にみればいい。でもこの高い入場料をとるからには、そしてなによりも小劇場系の伝統に乗っかっているのであれば、単に凝ったショーを見せるのではなく、もっと心にずしんとくる芝居を見せて欲しかった。

そこでこの記事の「歌舞伎か?」になる。歌舞伎を(原義といわれている)「傾く」とするならば、これは歌舞伎ではない。というのも「傾く」はあくまでも従来の(踊り、演技の)あり方へのアンチテ−ゼだったはずだから。既成のものを崩すというところにその心意気があるわけで、劇団新感線の芝居はあくまでも既成のもののパッチワークだから、それでは「傾く」ことにはならない。

また、歌舞伎芝居を丸本歌舞伎の伝統の上にある、つまり人形浄瑠璃の義太夫語りを軸に据えたものと捉えるなら、その点でも劇団新感線のものは「歌舞伎」ではない。義太夫でいうところの「音遣い」ができていない役者がほとんどだった。息のつめ方がわかっていない。だから間がとれない。日本語のリズムに乗れないので、聞き取りにくい。台詞の言葉の必然が伝わってこない。感情、心理といったものが立ち上がってこない。

前のブログにも書いたけれど、身体の動きと「音遣い」とは表裏一体である。日本人特有の「ナンバ」は当然その息を詰めるという日本語の発声とも密接に関係しているのである。これはすべて武智鉄二の受け売りであるけど。

私がここまでの苦言を呈するのは、歌舞伎へのなにがしかの思い入れがあるからかもしれない。「いのうえ歌舞伎」と銘打っていたので、こちらの期待値が高く、実態との乖離があまりにも大きかったからでもある。