yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

スーパーカブキII 『空ヲ刻ム者』@大阪松竹座4月11日昼の部

筋書に掲載されている英語のサマリーでも、また劇場アナウンスでも「空」を「ソラ」と読んで(理解して)いて、鼻白んだ。一旦独り歩きしてしまったタイトルを変更するのは大変だろうけど、これはやっぱり「クウ」でしょう。劇中に「ソラ」に当たるものはまったく出てこなかったことを鑑みても。「ソラ」と読んでそこに「クウ」の意味を加味したかったということなんだろうか。釈然としない。ということで、英語タイトルをつけるとしたら、上の表記になる。断じて「sky」ではない。どうしてもひとこと言っておきたかった。英語では「The One Who Carves the Emptiness」でしょう?

全般として悪くはなかった。ただ、何も残らなかった。それも新感線の『髑髏城の七人』と同じ。印象的だったのは何かと聞かれてみると、返答に困る。なぜなら、本筋、あるいはテーマにあたる(であろう)ことではないから。印象的だったのは、猿之助、内蔵助のうちそろっての宙乗り、浅野和之の怪優ぶり、福士誠治のピュアさ(というかカワイらしさ)、佐々木蔵之介の色気、そして猿之助の上手さということになる。これらすべて本筋とは関係ない(でしょ?)。

原因の一つとして挙げられるのは、脚本の「複雑さ」である。その意欲は汲むけれど、実際に舞台で表現できなくてはその意欲も何にもならない。お芝居としてみたら、「歌舞伎」の範疇には入らない。どちらかというと、新感線の『髑髏城の七人』の系統に誓い。主人公を仏師に変えたら、今回の芝居になる。テーマもほぼ同じ。その点ではかなり失望した。作・演出は小劇場系劇団を主宰している前川知大という方らしい。筋書によると、大まかなところは彼が描いたものの、稽古中に猿之助が「歌舞伎」に仕立てあげたということなので、実質的演出担当は猿之助だろう。

三代目猿之助が始めた「スーパー歌舞伎」、残念ながら実際の舞台を観ていないので以下はあくまでも先日みた四代目主演のシネマ歌舞伎、『ヤマトタケル』、そして市川右近主演の舞台、『新・水滸伝』をもとにしての話である。『ヤマトタケル』を観たあとで、「『人の心に宝があることを忘れた倭人=現代人』や、『奢り高ぶり、先住民と共生せず彼らの魂鎮めもしない現代人』への警告を発するところとかは、かなり説教調で、「なに、このポピュリズム発想!」と、感興がそがれた」とブログに書いたのだが、同様の感慨を持った。スーパー歌舞伎のベースにこういう「思想」があるのだろう。三代目が(そして梅原猛が)闘わなくてはならなかった時代、その相手が彼にこういわしめたのは分かる。でも三代目の始めたスーパー歌舞伎の時代と今では事情がかなり違う。闘う相手も違う。もっというならば、闘う相手が明示できる他者ではなく、自身であるということが今の時代ではよりはっきりしている。もっとも三代目の時代からそれはいうなれば普遍的なテーマであったのだろうけど。その普遍的テーマを鮮明に打ち出されないと、観客の心に訴えかけないし、納得させられないのではないか。人は「説教」されに劇場に来るのではないから。

仏師を主人公にしたところにベースになる思想を表そうとした「苦労」のあと、工夫のあとはみえる。主人公の十和がある「悟り」に至るという結末はそれを表している。でもそれが胸に迫らないのは、その前のプロット/サブプロットの組み合わせがあまりにもごちゃごちゃしているから。特に盗賊団を絡ませたところ。まあ、いかにも小劇場系のごちゃごちゃ感。ある種の押し付けがましさとひとりよがり。

比較してしまうのは野田版歌舞伎の『鼠小僧』や『研辰の討たれ』。この二つ、はまさに現代という時代の、あるいはそれを超えた人間世界の普遍的な人間像を余すところなく描いて秀逸だった。シェイクスピアがやったのもそういうことだった。歌舞伎にはもともと「説教」はない。でも「思想」がないわけではない。歌舞伎には歌舞伎の文法がある。その括りがあるから、逆にそれを「料理する」面白さがあり、自由さがある。四代目猿之助の『ベニスの商人』の舞台がすばらしかったのも、こういう括りの中で演じるということに彼が慣れていたためだと思う。

歌舞伎には「本歌取り」(アナロジーやらアリュージョン) といった手法がある。だからあえてことわらなくとも大枠のプロットにサブプロット(つまり「本歌」)が自然とくっついてくる。これがなによりもの歌舞伎の強みだろう。三代目猿之助の『伊達の十役』を海老蔵が演って成功したのは、このためだろう。「スーパー歌舞伎」ではないから。

エンターテインメント度では野田版歌舞伎に遅れをとっている。脚本の未熟さもあるけれど、猿之助自身のキャラにあるのかもしれない。真面目で研究熱心であるところは三代目に似ている。でもそれゆえに勘三郎のように羽目を外してしまえない。勘三郎が羽目を外すのを止めるのに苦労したと『浅草慕情 なつかしのパラダイス』を演出した久世光彦が書いていた。でも二人のその拮抗感が舞台にも出て大成功になったのだろう。

「スーパー歌舞伎II」を四代目がやりつづけ、成功させるには、一旦三代目の方針、「思想」を壊し、新たに違った切り口、視点で立ち上げる必要があるだろう。目一杯「小劇場」系でゆくのか、歌舞伎で覆ってしまうのか、はたまた野田版歌舞伎のようにするのか、「ええい、ここはひとつ思案のしどころじゃ」というわけ。今回のものが現時点で私には成功したとは思えなかったけど、でもこれを変えてゆくことは可能だと思う。いろいろ試し、チャレンジしてみる余地があるだろう。

やっぱり野田版歌舞伎が参考になるのでは。あの諧謔精神が。そういえば今回の役者みんながどこか「よそゆき」ぽかった。東京ぽかった。もっと崩してもいいのでは。そしてなによりも「オモロさ」を取り入れて欲しい。エンターテインメントとして自立して欲しい。緩急の自在さ、阿吽の呼吸というか、間の取り方というか、そういうものがほとんどなかった。例外は佐々木蔵之介さんの関西弁(京都弁)のアドリブ、たとえば2幕目で彼を虚仮にする貴族に向かっての台詞、「シバイタロカ!」。これ、おかしかった。二つ目は彼を誘惑すmる時子(貴族長邦の妻)への、「マジっすか?」。それ以外は全体に「生真面目」過ぎる印象。思うに、勘三郎のネオ歌舞伎が成功したのは、彼が藤山直美のおもしろさを取り込んだところではなかったか。元々彼自身にもそういう面白さをアプリシエイトする部分があったのだろう。ご本人も「僕は大阪クオーター」だと言っていたようだし。もちろん実際に彼の祖父の歌六は上方出身だった。

もう一つ問題だと思ったのは「人生」が連発されたこと。「人生」が使われ出したのはせいぜいが16世紀。(『日本国語大辞典』第七巻、小学館)もちろん最初に「ときはいにしえの日本」ということわりがあったとしてもである。舞台をみた限りでは「いにしえ」はおそらく貴族が実権を担っていた時代、それに対抗して武士階級が台頭してきた頃だろう。つまり平安末期。話の内容もこの二つの階級間の闘争が下敷きになっている。史実は虚構化できるけれど、言葉を現代のものにしてしまうのは問題である。もう少しセンシティブになって欲しい。

良かったところはまず舞台装置。これはよく出来ていた。キッチュぽいところがとくに気に入った。この日の座席が前から四列目という席だったということもあり、そのキッチュさが楽しめた。でも松竹座の客はどちらかというと年齢高めだったので、小劇場的な「いかがわしさ」をどう理解したかは分からないが。だから一人でくすくす笑っていた。仏像も然り、鑿とかの道具も、刀などの小道具もすべて然り。

二点目は冒頭にも書いたけれど、浅野和之の怪優ぶり。ほんとに上手い!口上のときからずっと下を向いて居眠った(ふりをした)ままで、第一幕に突入した。これ、ホントおかしかった。鳴子という巫女のおばば役だったのだけど、堂に入っていた。この方野田さんの主宰していた「夢の遊眠社」の役者さんだったんですね。道理で上手いはず。三谷幸喜舞台の常連らしい。以下筋書に掲載の写真。

三点目は佐々木蔵之介の奮闘。確かに声は小さかったけど、前の席ではよく聞こえた。さすがの存在感。猿之助と十分に張り合っていた。役も彼のニンにぴったり。一番良かったのは、きちんとした折り目正しい、そして知的な芝居だったこと。なぜ猿之助が彼を選んだのかその理由が分かった。こういう役者、歌舞伎にはいないですものね。小劇場的な破天荒さも恐らく持っているのだろうが、それを極力抑え、他の役者が立つようにしているところ、そういう計算をきちんとできるところ、やっぱり劇団主催者だと納得した。それになんといっても清潔な色気。間近で堪能できて満足。

四点目はまたもや役者、福士誠治。NHK朝のテレビ小説なんて私の辞書にはないけれど、どう血迷ったか2006年の『純情きらり』をたまたまみて、彼の魅力にハマリそのままこのシリーズを最後までみてしまった(これが最初で最後)。当時はまったく無名だったけど、それでも応援ブログができたりしていた。それ以来みていなかったので、この日の舞台は期待に胸を踊らせて(?)行った。画面でみた通りの印象だった。清潔でピュアな感じ。役柄もそういうニンに合ったもの。花道横の席だったので、これまた間近でみれた。華奢な方だった。その点を除けばどこか佐々木蔵之介さんと共通したニオイを感じた。

そして最後はやっぱり四代目の「スーパー歌舞伎」を成功させるという強い意欲。今までにみた彼の舞台の中でいちばん入り込んでいた。入れ込んでいた。それも必死というのではなく、楽しんでいる感じ。観客を巻き込む面白い舞台を作りたいという意欲は伝わってきた。

14日に今度は三階席でみるので、また違った視点でみれるかもしれない。次回は澤瀉屋の主要役者がこの芝居でどうだったのかについて書く積もり。

最後にハイライトの宙乗り。