yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

荒城勘太郎さんと荒城蘭太郎さんの並外れた才能・力量が光る芝居、『おひけぇなすって!裏』劇団荒城@浅草木馬館 10月23日夜の部

今月の劇団荒城はとにかくすごい!「10月の上演芝居、120本に挑戦!」っていうんですから。120本を30(日)で割ると毎日最低4本の芝居をかけなくてはならない。つまり、昼・夜部、それぞれ少なくとも2本の芝居をかけるということになる。信じられない!実際にこれを実行しているのが、もっと信じられない。すべて違う芝居ですよ。それもクオリティレベルが半端なく高いんですから。

昼・夜を通して見ることができた一昨日(22日)の公演は圧巻だった。昼の部は芝居が2本プラス舞踊ショー2本、夜の部はさらにカゲキに芝居が3本に舞踊ショーが3本だった。喜劇がほとんどで、悲劇の多い劇団荒城にしてはめずらしい内容だった。しかもどれもレベルの高いコミカルなもので、芝居時間が短い分、コンパクトにまとめられていた。テンポが速く、ちょっとコントのオンパレードを見ている感じがした。19日の舞台についての記事にも書いたけれど、勘太郎、蘭太郎、月太郎さんたちの芝居・舞踊ともに、昨年に見た折より飛躍的進化(深化)が確認できた。もう、どの劇団も敵わない。

 

19日の夜、20日の夜、22日の昼夜と見てきて、記事のタイトルにあげた芝居が昨日(23日)の夜の部のもの。昨日は昼に新橋歌舞伎場で『オグリ』を見て、そのあと木馬館に移動。この『おひけぇなすって』に間に合った。

この芝居、ベースは長谷川伸原作『刺青奇偶』。それを思いっきり変えているのだけれど、パロディではない。悲劇の骨子はそのまま。つまり、半太郎とお仲のなれそめ。死を前にしたお仲が半太郎の腕に骰子の刺青を入れて彼の賭博狂いを諌めたこと。彼女のために金をつくろうといかさま賭博をして殺されかけたところを、賭場元締の親分に「救われた」顛末。親分との賭けに勝って手に入れた金も虚しく、お仲は死んでしまったこと、これらはそのまま。でもコンパクトにするため、端折りながらも辻褄が合った形へ組換えている。しかもそこに「黒駒勝蔵」誕生秘話を「無理に」ねじ込み、さらになんとあの清水次郎長を絡ませている。そのために、半太郎は勝五郎(勘太郎座長)、お仲はお駒(蘭太郎)となり、半太郎の仲間が(後に次郎長になる)長五郎(月太郎)となるという次第。奇想天外、でも変に納得する筋書き。面白い。さらに、勝五郎の身の上話に同情して彼に金を与えた親分(真吾総座長)が全編を締めるという形も、妙に納得できてしまう。

感心したのが、勘太郎さんの演技力。半太郎ならぬ勝五郎という人物がくっきり立ち上がってきていた。人物造型のうまさ、とくに世を拗ねつつも情にもろい役がうまい。蘭太郎さんも負けていない。この方、少女っぽい感じの美形で(荒城四兄弟は長身・美形ぞろいです)、冷たい世間を見限りつつも、純粋な心根を失わない情の深いお仲ならぬお駒を、見事に造型していました。お駒が勝五郎の腕に刺青を入れるところは、大衆演劇、歌舞伎、新派を問わず泣けるところ。やっぱり泣いてしまった。これまで以上に!

親分がお駒の死に顔を見てつぶやいた、「真っ黒どころか、かわいい顔をしているじゃねぇか」では、涙ポロポロ涙で困った。この場面、もちろん長谷川伸原作にはない。布団に寝かされている蘭太郎さんの顔が席からもよく見えたのだけれど、本当にかわいく、幼く、可憐そのもの。横では勘太郎さんが泣いている。真吾座長、勘太郎さん、蘭太郎さんの作る強靭なトライアングルの構図。父子そのままの現実を見ている気分になってしまった。感情が共振してしまった。こんな体験は最近なかった。

現代劇で人の心の闇というか深淵を描かせたら荒城真吾さんを超える人はいないと思っていたけれど、勘太郎さん、蘭太郎さんはお父上とは違ったアプローチでそれを描こうとしているように感じた。蘭太郎さんが布団に横たわり、勘太郎さん、真吾さんがその脇に座っているあの場面。勘太郎さんは真吾さんよりはるかに華奢、また蘭太郎さんも華奢。お二人とも父上より細身。ニンが違っても当然で、それでも父上の想いをしっかりと身体に刻みつけているのがわかった。これにも感動してしまった。 

切狂言の「夢現」にも感動した。これは別稿で。涙もろい一日だった。勘太郎さん、蘭太郎さんの演技力に敬服した一日だった。

 

<追記>

この二日後の真吾座長の口上で知ったのが、「おひけぇなすって!」はシリーズになっていることだった。「清水次郎長」物が「表」、「黒駒勝蔵」物が「裏」に当たる?いわゆる大衆演劇(旅芝居)定番の次郎長を巡るエピソードの数々を一旦解体、再構築した芝居にしている。だから業界ではよーく知られた話も違った様相のものになっている。非常に面白い趣向。こういうことを歌舞伎はしない。例外は串田和美演出のコクーンシリーズのみ。その意味で、真吾座長の意図がいかに意欲的かがわかる。旅芝居の縛りを逆手にとっての試みともいえる。演出家として稀有な人だろう。

新歌舞伎でも真吾座長を演出家に招いて、(真の意味で)斬新な歌舞伎を作って欲しいと切に願う。