yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

山本東次郎師作詞の「舞囃子“梅と橘”」in 「NHK 古典芸能への招待『四世梅若実 芸の魅力』」

NHKの解説では「山本東次郎:作詞  梅若実 ほか:作曲」となっている。ひとことでいうなら「二人の人間国宝の競演」ということになるだろう。山本東次郎師が梅若実師の四世襲名に寄せて詩(詞)をdedicateされたもの。古典の様式に則りながら、梅若家の由来、発展の歴史を謳い込んだものになっている。教養の深さを感じさせられると同時に、そのイメージの豊潤に圧倒される。

梅若家が橘諸兄の子孫であるという「歴史」を踏まえて、それに因んだ事象、出来事を組み合わせ、それらが無理なく一つの織物になるように形作られている。起点は「右近の橘、左近の桜」であり、「橘」の意味が時間の経緯とともに梅に変わってゆくさまが謡いこまれている。梅若家が日本史の重要な環の一つを形成していることを賀ぐというもの。感動的だったのは、「梅」が冬の時代にも生き続け、今咲き誇っていることを言祝いでいる箇所。「観梅問題」という大きな荒波をくぐり抜けてきた梅若流への「賛歌」になっているところだろう。背景には定石通りの「神の祝福」が謡いこまれている。それを表しているのがこの舞囃子の舞台背後の(鏡板に描かれた)「影向の松」になるのかもしれない。

イメジャリーの連鎖の中に、しっかりと歴史が浮かび上がるように練られている。山本東次郎師の知性と教養に感動してしまう。加えて、梅若実師への愛にも。録画画面を見ながらカメラに撮った詞章をアップさせていただく。間違いあればご容赦。

そもそも世々に知られしは 右近の橘 左近の桜 これ皆ひとの賞翫す

しかれども しかれども そのいにしへはさはなくて

東の傍ら左近には 梅木を植えし習いあり 

しからば故実を語らば 

新たに桓武天皇は 山城の国に遷都なし 平安京と名付けたり

大内山の奥深き 内裏皇居の紫宸殿

南に向きし庭の面 讃え植えたる霊木は 梅橘二木なり

往時に思い巡らせば 紫宸殿の階に 立つ一対の霊木の

梅橘の奇特をば 世の人々に 知らしめん

まず橘の謂れといつぱ 昔垂仁天皇は

不老不死の仙薬が 常世の国に成ると聞く

橘という黄金の実 すめらみことは望まれぬ

勅被りて田道間守 南の島へと旅立ちて

費やす歳月十余年 非時香菓を探し出し そのまま帰国 献じたり

それより後は我が朝も 常世の国にあらねども 橘香る国となる

さてまた梅の気高さは 歳寒の三友 松竹梅のことなれど

中にも梅は厳冬の 風雪 霜を耐へ忍び 冬木のままに 花開く

また梅を 好文木と申すは 帝学問に励むとき

彼の花 見事に咲き誇り 怠り塗れば 花散れり 

梅が香を 運ぶや春の風の内

戯れる胡蝶の 夢何処

梅咲きて 四方に香れば

待ちわびた 初音嬉しき鶯の 緑の羽色懐かしく

若き朝の 空に飛べ

賀茂の祭りの思ひ出と 楽を奏して諸共に

御代を言祝ぐ 舞まはん

 (二人の連れ舞いが入る)

偽り多き人の世の 濁りに染まぬ 心にて

香気満ち満つ 徳も位もそなはりて

やんごとなき 樹と讃へられ

仏果を得んこと 疑ひあるまじ

草木国土 悉皆成仏

梅橘の花咲き実り 繁り栄えて 久しけり

 

もちろん梅若実師の舞いはさすがだった。それ以上に感動したのが御歳81歳になられた東次郎師の舞い。座位から立ち上がられる際にも乱れがない。舞い姿を拝見するのはこれが初めてなのだけれど、機会があれば東京に出かけて行って狂言舞台を拝見したいと思った。東京の大蔵流狂言の山本家の総帥。見るからに素敵な方。Wikiで検索していて、梅若実師との間にまるで谷崎潤一郎と佐藤春夫との関係を思わせる出来事があったことを知った。それなのにこの寛容と慈愛。彼には後を継がれるお子さんはおられないようなので、余計に感動してしまった。梅若実師の実子、藤間勘十郎さんも能を継いでいないのではあるけれど。

 この舞囃子の演者一覧は以下。

(シテ)梅若 実

(シテ)山本 東次郎

(笛)杉 信太朗

(小鼓)鵜澤 洋太郎

(大鼓)安福 光雄

(太鼓)澤田 晃良

(地謡)山崎 正道、鷹尾 章弘、角当 直隆、山中が晶、川口 晃平、内藤 幸雄

(後見)小田切 亮磨、山中 景晶 

ネットを渉猟していて、山本東次郎師に著書があることを知った。そのうちの一冊、『狂言のことだま』(玉川大学出版部 2002)について、松岡正剛氏が優れた書評を書いておられる。

646夜『狂言のことだま』山本東次郎|松岡正剛の千夜千冊

 今日にでも図書館から借り出すつもり。