yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『じゃじゃ馬馴らし』シュツットガルト・バレエ@兵庫芸術文化センター 6月9日

いわずとしれたシェイクスピア原作(原題: The Taming of Shrew) のバレエ。もちろんみるのは初めて。そういえばシェイクスピア劇の方もBBCの映画化したものでしかみたことがない。ロンドンやストラット・アポン・エイボンに長逗留しない限り、行きあたることの少ない作品なのだろう。たしかめようとWikiをみると、なんと!シェイクスピア原作の形ではあまり舞台にあがっていない。ミュージカルでは Kiss Me Kate に化けて(?)いるけど。エリザベス・テイラー、リチャード・バートン主演で映画化もされている。

バレエでこのハチャメチャな作品をどう表現するのだろうと訝っていたのだが、「ドラマティックバレエ」ではまるで演劇のような(というか演劇そのものの)演出でみせるので、違和感がないと分った。違和感がないというより、むしろバレエのアクロバット的、そしてパントマイム的な演出の方が、原作の躍動感を伝えているかもしれない。それにしてもこういう演出、サプライズだった。バレエでないような、でもやっぱりバレエに違いない。そういう境界を超え出るところが、古典バレエにない面白さ、妙味なのだろう。プラハでこの3月にみた『眠れる森の美女』もたしかに「ドラマティックバレエ」のジャンルに入る作品・演出だったのだと、遅まきながら納得。以下はサイトからの写真。主人公を演じているのは配役が異なっているけど。
以下、公式サイトからの写真をアップしておく。

まるで台詞がきこえてくるような踊り、それは一見ミュージカルを思わせる。とはいうものの台詞を入れるとどうしても声の生々しさが前面に出てくる(なにしろ役者の巧拙は「声」によって示されるのだから)。ただ、「生々しさ」を踊りでみせるとなると話は別である。「声」の部分を「踊り」で、そのテクニックで描出するのだ。まるでことばと音が一体化したかのような踊りで。となると、バレエダンサーにはそのダンスのテクニックのみならず、演技力が求められることになる。

今日の公演で主人公を踊った二人——カタリーナ役のカーチャ・ヴェンシュ、ベトルーチョ役のジェイソン・レイリー——ともに演技力ではずば抜けていた。今日の舞台には総勢50名をこえるダンサーが出ていたが、その中でもこの二人は出色だった。

私の最近の数少ないバレエ観劇の中でも、カーチャ・ヴェンシュの演技は際立っていた。少女が大人になってゆく過程での自分で自身を制御しきれない不安定さ、それを「暴力」という形でしか表すことができないもどかしさ、そういうものを見事に描いてみせていた。彼女の演技をみて、思わずこのカテリーナにはフロイト、ラカンの精神分析が適用できるなんて思ってしまった。

記憶に間違いがなければBBC版ではもっと大人の女性として描かれていたように思う。大人の女性として描くと、フェミニストからは攻撃を受けるに違いない。現に糾弾されてきた歴史を持っているようである。シェイクスピア劇は、その作品ひとつひとつが批評史を築いて来ているほどであるけど、この作品は「女性をかい馴らし、屈従させる」というところにのみ焦点をあわせて読むと、けっこう問題があるかもしれない。でも批評家のハロルド・ブルームなど、カタリーナの最後のスピーチには「女性(妻)が屈服するとみせて、実際には男(夫)を牛耳る」さまが描かれているのだと、うがった評価をしている。どこかの国の夫婦像のようだけど。

カーチャ・ヴェンシュはそんなに小さな人ではないのだけど、そうみせる演技で、少女のかわいさと同時に滲み出る機智が表現できていた。その点では今まで映画化、舞台化されてきた「じゃじゃ馬」とは違って、「ツンデレ」的キャラに近い。この日の会場に若い人が少なく、はまりどころがちょっと違っていたのが少し残念。

ベトルーチョ役のジェイソン・レイリーは精悍そのものの容貌、それにスレンダーな他の踊り手と比較するとその筋肉質の体躯が際立っている。力が身体全体にみなぎっている感じ。それでいて正統派だと思わせるのが眼のさめるような正確かつ技巧的跳躍と、踊りのメリハリの付け方である。ウルトラ級にパワフル、そして何よりも若さが全開である。モダンダンサーのカテゴリーに入る人なのかもしれない。アメリカでみた黒人ダンサーの踊りを思いだしてしまった。ベトルーチョを彼が演じると、どこか「優しさ」、「品のよさ」が出て、本来のベトルーチョのニンとは少し違っているような気もするけど。そういやこの主役ダンサーの二人とも「下品」なる一歩手前の微妙な境界、その境界特有のパワーを具現化するのに成功していた。世俗性(vulgarity) っていうのは、演劇には(脚本、役者ともに)必須のスパイスだから、そこがうまく表されているだけで、うれしくなってしまう。

それはこの作品を振り付け、そしてそれまでのバレエにはなかった新境地を拓いた「天才振付師」といわれたジョン・クランコの振り付けに負っているからだろう。以下がその写真。

バレエに演劇の要素を取り入れた「ドラマティック・バレエ」を確立した功績はずっと語り継がれているようである。Wikiに載っている経歴をみるとそれも頷ける。シュツットガルト・バレエに招かれるまで、それこそ人形遣いのショー(puppet show) に始まり、ミュージカル、喜劇オペラ、オペレッタなどで振り付けを担当してきている。パントマイムをつかった彼の振り付けはもちろん人形のショーから学んだものだろうし、その阿吽の呼吸の秀逸なコミカルセンスは喜劇に磨き上げられたものだろう。そしてなによりも!ダンスの間に垣間見える少年的というか、ピーターパン・シンドローム的な要素はきっと彼がずっと「少年」だったからだろう。これは先ほどの「少女的」カテリーナや「上品」なベトルーチョ像となって、結実しているように感じた。

クランコは45歳で、夭逝といっても良い年齢で、亡くなっている。飛行機で移動中、服用した睡眠薬によるアレルギー反応のため機内で亡くなったそうである。それもある意味彼自身に、そして彼の振り付けに「永遠の少年クランコ」のイメージを付与しているのかもしれない。