yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『笹川の花会』澤村心座長in春陽座@明生座7月30日千秋楽

お芝居は当初予定していた『磐梯やくざ』ではなく、変更して『笹川の花会』でした。心座長主演(だから行ったのです)でした。

大衆演劇とは限らず歌舞伎も含めて古典演劇での人物の造形は得てして平面的です。もちろん多少の立体化は施されますが、それでも西洋演劇に比べれば立体的とはいい難い。これは浮世絵にみられるような日本画にもあてはまります。それが悪いとか劣るとかいうのではなく、捉え方の違い、いってみれば世界の捉え方の違いとでもいうべきでしょうか。立体的でないから決して平板な訳ではありません。要は視点の違いということになります。人間と人間の生臭い絡みを描こうとするのが西洋演劇だとすると、人間を一旦景色の中に埋め込み生臭さをカッコに入れた形で描くのが日本の演劇なのではないでしょうか。

心座長ははそのカッコのくくりをはみ出してくるように人物を造形しているように思います。それは大衆演劇の約束事からはみ出してしまっているので、大衆演劇っぽい芝居を期待している、言葉をかえれば「あくまでも大衆演劇の範疇におさまった類型としての人物」を期待している観客には理解不可能でしょう。ほとんどの観客は類型化した人物にあまりにもなじみきっているので、心座長の演技には違和感を感じるかもしれません。もっとも、観客の大半は芝居によりも舞踊ショーを見に来ているので、そんなことには心を止めることもないかもしれませんが。

『笹川の花会』では笹川繁蔵役でした。笹川一家と敵対関係にある飯岡一家の若い衆(かずまさん)が飯岡助五郎の使いといって繁蔵主催の花会に祝儀金をもってくるが、それはその若い衆が自らの女房を苦界に沈めて作った金だった。それを見抜いた繁蔵はその若い衆の心意気にうたれ、彼からの祝儀金と合わせて飯岡助五郎からの祝儀と偽って100両の金を立てかえてくれる。感謝して去って行く男の背をみながら、自分の子分に「いずれは飯岡との出入りがあるだろうが、てめえたちもあの男に負けるなよ」とはっぱをかける。そのときの目つき、態度がきわめてリアリズム的でした。立体的でした。ふつうの大衆演劇の役者なら、思い入れをたっぷりとそこでやるのでしょうが、彼をそういう「やまあげ」の大仰さを排します。そこがなんとも現代的ですし、西洋演劇に近い感じがします。こういう風に演じる役者は大衆演劇には少ないのです。ほとんどの役者がちがったことを自明としてやっているときに、「演じる」ことへの自身の信念、いってみれば美学を貫くのは大変でしょう。でもなんとしても頑張っていただきたいと願っています。