yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

渡辺保著『舞台という神話』

ひところ渡辺保の歌舞伎論に夢中になったことがあった。『女形の運命』、『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』、『娘道成寺』、『中村勘三郎』、『仁左衛門の風格』、『舞台という神話』、『勧進帳 日本人論の原像』と読んだが、それは1997年に渡米する前のことである。アメリカの大学院にいる間に関心が少しずれてしまったこともあって、いつのまにか疎遠になっていた。

歌舞伎論としては個人的には三島由紀夫のものがいちばん好きである。彼の並々ならない歌舞伎への思いが溢れていて、その溢れる感情を知力で制御しようとしているところに三島の素顔のようなものが垣間みえる。小説家としての顔とはまた違った顔がみえる。小説というジャンルに関わるときは彼はもっと構えているから。堂本正樹のことばを待つまでもなく、三島は骨の髄まで「劇人」だったのだと思う。

三島の批評の知的な部分、分析的な部分を受け継いでいるのは渡辺保である。ただ、構造主義ポスト構造主義の洗礼を受けたおかげ(?)か、渡辺のものには西洋批評理論の影響が色濃くみられる。その点ではあくまでも独自の方法論で斬り込んだ三島とは一線を画している。ただ西洋の批評理論にながく馴染んできた私にとって、渡辺の方法論は親しみやすいものである。最初の段落と最後のそれとがみごとに整合性をもって構成されてるので、読者にも親切な演劇論といえるだろう。また、分析方法には構造主義を援用しているのだが、それは構成の仕方にも及んでいて、日本の演劇論にはめずらしく理路整然としている。つまり、序論と結論に違和感がない。でも「冷たい」とか冷静といったのではなく、そこはやはり演劇狂いの渡辺らしくところどころに「ほころび」がみえる。それがまた魅力である。

彼の演劇論で一番影響をうけたのはなんといっても『女形の運命』で、中村歌右衛門論としては右に出るものはないだろう。この歌右衛門とは六世歌右衛門で、もちろん三島も惚れ込んだ希代の歌舞伎役者である。この歌右衛門の『籠釣瓶』での「笑い」がずっと頭から離れなかったほどである。残念ながら実際にはみたことはない。でもまるでみたことがある気になってしまう。秀逸な描写力である。

『舞台という神話』はいろいろなところに掲載した文を集めたものである。論じた役者は歌舞伎、文楽、能、新派、新劇、シェイクスピア、そして武智鉄二にまで及んでいて壮観である。その中で今読み返しておもしろかったのは六代目菊五郎と初代松緑との絡みを描いたエッセイだった。先日松竹座での「蘭平物狂』の現松緑に感心した旨をブログに書いたが、そのときに、六代目と初代松緑とが師匠と弟子の関係だったことを初めて知った。ところがこの『舞台という神話』の中の「愛弟子」という章にその関係が生き生きと描かれているではないか!まったく自分のいいかげんさに呆れてしまった。初代松緑は『松緑芸話』という芸談を残していて、そこに六代目の「弟子思い」のエピソ-ドが語られている。『義経千本桜』の「鮓屋」のいがみの権太を松緑が演じたときのことである。歌舞伎座の初日、六代目の薫陶を受けた松緑が初役の権太を演じていると幕内から六代目が指図をする。その声が会場の後ろまで聞こえていて、ほとほと困った松緑がなんとか逃れようと上手に行くと、そこにはちゃんと六代目が袖で待ち構えていて、またもや大声で「指導」する。そういう松緑を渡辺は「仏陀の掌の内で踊る孫悟空」と形容しているが、これもおかしい。

そのあと、六代目は松緑に「権太はお前の家のもんだ。五代目幸四郎のもんだ。だからお前もちゃんと覚えておかなくちゃいけねえ」と「言い訳」をしたという。なんともほのぼのとした師匠/弟子関係ではある。でもそこには六代目の「権太役者」としての自負も伺えるわけで、このエピソードをとりあげる渡辺保松緑、そして六代目への愛情がひしひしと伝わってくる。