玉三郎十八番の芝居らしいのだが、初めてみた。玉三郎は最近はあまり「大歌舞伎」で見かけないと思ったら、活動の場をこのように移していたのだ。さすが玉三郎である。あくことなく新しいことに挑戦し続けているのだ。サイトのパンフレットからの玉三郎の写真である。凛として、美しい!
以下があらすじ。記憶を頼りに書いたので、誤りがあるかもしれない。
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幕があくと、暗い室内と思しきところにお園(玉三郎)が立っている。彼女が窓辺によって窓をあけると陽がまぶしくさしこんでくる(照明が実に効果的に使われていた)。「今日もいい天気だねぇ」とふりむくと、明るくなった部屋に遊女の亀遊(石原舞子)がいる。病気で臥せっているところを、昔なじみのお園が見舞っているのだ。ここは横浜の遊郭、岩亀楼の行灯部屋。お園と亀遊は吉原にいたころからの顔見知りで、二人とも流れ流れて横浜にやって来たのだ。ここでの暗闇と光の対比の演出、廓という暗闇とそこに属さざるをえない遊女、そして洋々たる未来をもつ若い男のアナロジーとして有効に使われているのだ。
亀遊とお園が話しているところに遊郭の通辞をしている藤吉(松田悟志)がやってくる。彼は亀遊に南蛮渡来の薬をもってきたのだ。その薬が効いたのか、亀遊の顔色も良くなってきていた。藤吉の来訪をよろこぶ亀遊のさまをみて、お園は二人が相思相愛だと推察する。亀遊が手洗いに立った折に、お園は藤吉から彼の「夢」を聞き出す。藤吉はアメリカに医学の勉強のために渡る決心をしていた。亀遊の気持ちを考えてお園は暗い気持ちで立ち去る。
藤吉と二人になった亀遊は彼の夢を応援したいが、もっと稼げる「唐人口」(外国人相手の遊女)にだけはなりたくないのだという。ここ横浜の遊郭にはそういう外国人専門の遊女が多くいたのだ。亀遊は藤吉に「本名の智恵とよんでほしい」と訴え、二人はかたく抱き合う。
それから3ヶ月後のある日、岩亀楼では薬問屋の大種屋が通訳の藤吉を伴い、アメリカ人商人のイルウス(団時朗)を接待している。お園も接待の相手にその場にいる。イルウスの相手として唐人口の遊女たちが数人呼ばれるがイルウスの気にいる遊女はいない。そこへ亀遊が大種屋の相手として現れると、イルウスは亀遊を望む。藤吉はそれを通訳するしかない。それをみた亀遊は絶望し、部屋へ引っ込んでしまう。岩亀楼の主人はイルウスが乗り気なのをみてとり、亀遊の身請け料として、600両をふっかける。イルウスはそれを承知する。このやりとりをみていたお園はそれをやめさせようと岩亀楼の主人に頼みこむが聞き入れられない。お園が亀遊の部屋へ行ってみると、亀遊は剃刀で喉をかききって自殺していた。
亀遊の死から二ヶ月。場所はふたたび岩亀楼。明日アメリカに渡る船に乗り込むつもりの藤吉がお園に挨拶に来ている。お園はなぜもっと前に亀遊と逃げなかったかと、また藤吉が自身の志を立てるため、亀遊をみすみす「見殺し」にしたのだと藤吉をなじる。藤吉はあのとき、あのような形で二人が再会するとは思ってもみなかったと泣きながら話す。
そこへ亀遊の自殺を「美談」として載せた瓦版が出たという知らせがくる。それをお園が読んでみると、そこには亀遊はイルウスの身請けを拒んで懐剣で自殺したとあった。また、彼女が辞世の句として「露をだにいとふ大和の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」遺したとあった。実際の事件との違いに二人は驚きあきれる。しかも、お園は吉原にいた頃この歌を聞いたことを思いだす。それは、かつてアメリカ人の身請けを拒んだ吉原の遊女、桜木が読んだ和歌だった。
この瓦版に書かれた「美談」は一人歩きし、亀遊は攘夷女郎にまつりあげられる。連日その名を慕った多くの人が岩亀楼に押し寄せてくる始末である。商魂たくましい岩亀楼の主人は彼女の名を「亀勇」と改め、亀遊の死んだ部屋を立派な部屋に移して「亀勇」詣での「祠」にしてしまう。
一方お園は、「亀勇」詣でにやってきた人々に、瓦版にさらに脚色を施したお園版「亀遊物語」を立て板に水と語ることになる。この場面の玉三郎の演技力は凄まじい。彼が本領発揮するのはいわゆる柳腰の美女を演じるときよりも、陰のある年増女になるとき(たとえば『伊勢音頭』の万野)である。人生の機微を知り尽くした上で、それでもひとこといわずにはおれないひねくれ者の中年女、もう盛りはとっくにすぎているし、それを自覚もしているのだが、往年の盛りが忘れられないし、またどこかにその痕跡、面影をとどめている女。そういう女を演じたら彼の右にでるものは今の歌舞伎界にはいない。
さて、物語の方に還って、あれから5年。攘夷派・思誠塾の師・大橋訥庵の命日にその塾生が岩亀楼に集い、大橋を偲んでいる。外国人が優遇されるようになった時勢を苦々しく思う彼らは、攘夷女郎の話を聞こうとお園を呼ぶ。
今ではすっかりお園本人も何が事実かが分らなくなっているのだが、ここぞとばかりに目一杯脚色した亀遊の話を塾生に聞かせる。彼女は昔吉原で大橋が彼女に詠って聞かせた歌(それは例の瓦版で亀遊が辞世に詠んだことになっている)を披露する。すると思誠塾の塾生たちは大橋の詠んだ歌が5年前に死んだ亀遊の辞世の句と同じであるはずがないと、怒ってお園に切りかかる。事情を説明したが、塾生の怒りは収まらない。するとある年長の武士仲介に入り、お園が「大橋からその歌を聞いた」ことを他言しないように口止めし、その場を納める。
助かったお園は降る雨をながめながら、薄幸の遊女亀遊に、そして医学を勉強するといって一人アメリカに渡った藤吉に思いを馳せながらわびしく酒をあおる。
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有吉佐和子原作なので、もちろん古典的な歌舞伎作品ではない。新派に近いが、それでも純然たる新派とは一線を画している。それはやはり玉三郎の演技が成せる技である。一見「情の芝居」とみえるものに、型をはめている。それにより雑味が捨象され、一つの類型として人物が立ち上がってくる。たとえば亀遊の悲劇をそのままの悲劇として出さず、そこにメタ化を施すことで、センチメンタルになる一歩手前で踏みとどまっている。劇中人物が亀遊に同情するのも、きわめて類型的に描かれる。藤吉をなじるお園の玉三郎の演技もきわめて抑制の効いたものである。亀遊の死を嘆く藤吉の演技も型に則ったものである。やたらと感情移入をしていない。この「アッサリ感」はどうなってんだろうと、いささか拍子抜けするほどである。
それにもかかわらず、否それだからこそ最後のシーンでの玉三郎の身体から滲み出る、哀しみ、口惜しさ、やりきれなさがしみじみと観客に伝わってくる。そして、なににもまして、この時代の(今も大してかわっていなかもしれない、本質的なところでは)女が逃れられなかった制度への告発ともなっている。