yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

橋下市長の文楽予算削減を嘆く

8月3日の第二部公演『伊勢音頭』は住大夫さんが病気休演で、お弟子さんの文字久大夫さんが切を務められた。大阪市の新市長になった橋下さんの「文楽予算削減」がずいぶんと文楽の大夫さん、三味線弾きさん、そして人形の遣い手さんたちに過酷な精神的重圧をかけているのだろう。文楽という芸術は世界に誇れる高い日本文化の一翼を担っている。歌舞伎は幸いなことに松竹というパトロンをもつことができたが、文楽はそういう強力な民間のバックアップを持たなかった。これは本当に残念である。ヨーロッパの多くの国では芸術の最大のパトロンは国であり、州である。今年の3月に行ったプラハの劇場はいずれも「国立」だった。もちろん国が全面的に支援している。日本よりも豊かとは思えないチェコですら、他国に支配された苦い経験の中で、自身のアイデンティティを死守するための芸術は最後の手段だったのだ。大阪がその地で生まれた芸術を大阪のアイデンティティを象徴するものとして、日本の他地域にまた世界に示すということをやり続けていくことは、きわめて有意義なことである。

20年以上もつづく不景気、特に大阪の経済には明るい兆しがない。少ない予算を配分してゆかなくてならないから、カットしやすいところ、つまり食べて行くことには直接関係していない芸術をサポートする予算を削減するというのは、いかにも効率主義の橋下さんらしい。でも立ち止まって考えて欲しい。芸術は人間にとってなくてはならないもの、人が人である矜持をしめす最後の砦ではないだろうか。

文楽の観客動員数は確かに東京の方が遥かに多い。同じプログラム、演目でもそうである。それは私が文楽を見始めた1992年当時からそういう傾向だった。首都圏の方が関西よりも、個人も企業も豊かであるからに違いない。歌舞伎にもそれはいえる。以前なら歌舞伎座、今なら新橋演舞場で空席はあまりないが、大阪の松竹座での歌舞伎公演は日によっては空席が多い。

もし、大阪市として予算を削るというのであれば、文楽をプロモートするプロジェクトチームを市のバックアップで編成し、その中でより多くの観客を動員するにはどうしたらよいのかを、議論し、また実際に試して欲しい。文楽はおそらく歌舞伎に比べるとそういうプロモーションが弱かったのだと思う。それは文楽の啓蒙運動でもあると思う。杉本博司さんが演出した『曾根崎心中』が画期的な試みとして広く受け入れられ、新しい観客層を取り込んだように、プロモーションを巧くやれば、文楽もきっと新しい語り芸、人形芸として甦るにちがいない。

文楽関係者の年齢が高くなっている。次代の後継者、さらには次次代の後継者と育て上げることが急務である。歌舞伎に比べるとこのあたりが決定的に弱いような気がする。その上で新しい文楽像を創り上げることもやって行く必要があるだろう。伝統は守りつつ、より新しいアプローチ、試みをしてゆくことで、かって江戸時代に歌舞伎よりも人気があったという文楽本来の魅力を、そして輝きをとりもどす可能性が拓けるのではないだろうか。