yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

川島辰彦氏の訃報(11月4日11時55分、東京都中央区の聖路加国際病院で死去) を受けて

最後まで色々と物議を醸してきたこの方らしい最期ではある。皇室不要論まで出てしまった孫娘の結婚相手とその家族のスキャンダル。皇室のみならず日本のあり方をも揺るがしかねないその結婚騒動の最中に亡くなったんですね。

まあ、この方はその出自もあり部落解放運動に深く関わってきた経緯からも、皇室不要論に与していたはずである。娘を使って皇室に入り込む策謀を企てたのは、信奉する共産主義的思想から「転向」したわけではなく、もっと世俗的な欲望に駆られたものだったと理解している。皇室を我が物にする欲望、それが行くつく先は皇統簒奪という大謀略。それが今やこの人が唱えたソース(原点)に還って「皇室不要論」や「皇室解体」になっている現実。これが私たちの眼前に広がっている景色である。

親しみを込めて(?)カワタツとよばせていただく。カワタツと美智子前の結託については二度このブログで言及させていただいた。以下である。

www.yoshiepen.net

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以前に『週刊新潮』がすっぱ抜いたこの人と半島関連人脈。それが「紀子さまご尊父、特捜部が家宅捜索の「パチンコ社長」と韓国2人旅」というタイトルで『デイリー新潮』のネット記事になっている。リンクしておく。

www.dailyshincho.jp

ここではパチンコ業社長三井氏との親密な関係が暴露されているが、他にも朝鮮総連本部ビル売却問題で名の挙がった池口恵観氏と川嶋氏の密会が、2008年に報じられたこともあった。韓国、北朝鮮にも頻繁に出かけ、東京地検特捜部の家宅捜索を受けたこともあるという。池口恵観、三井慶昭共に在日で、裏社会との関係が強く疑われる人物である。「三井氏は川嶋氏のパトロンです。芸能人がヤクザや半グレに数十万円単位で奢ってもらって豪遊するのがあるでしょう? “ギャラ飲み“でしたか。三井氏が川嶋氏にしたのは“ギャラ旅行”。一緒に二人で韓国旅行に行っていて、しかもその旅費は三井氏が負担しているそうです」(川嶋氏に詳しい人物)という証言もある。

ひとことでいえば、こういう反社との関係も疑われるカワタツが、そもそも皇族の親族になりおおせた時点で、皇室にはすでに穢れが入っていた。反社との関係が疑われるのは小室圭とその母親が最初ではないのである。小室が入り込んだのは、秋篠宮がキコを入れたことの総仕上げだったのかも?とはいえ、あとにはカコという爆弾も控えているし、最終章はこれからなのかもしれない。

改めてWikiのカワタツの項に当たってみた。驚いた!以前に見たときに比し、研究業績の「論文・文献」欄が5倍以上に膨れ上がっていたから。以前には『学習院大学経済論集』での紀要論文がほとんどを占めていたのに、広報誌に載ったエッセイを多数加えている。呆れた。

もっと呆れたのが「職歴」の項。以前にはなかった「1972年、ペンシルベニア大学大学院専任講師」。ペン大のPh.D.を1971年に取得して、そのすぐあとに専任講師は、それも1年だけの経歴はあり得ない。おそらく教授の手伝い的に(TAの類で)payrollをもらっていたことを「専任」としたのだろう。単なる「講師」であり、それなら私も2006年から1年間は同じステイタス、つまりペンの「専任講師」だったことになる。向こうは非常勤などという名称がないので、給与をもらえば全て「専任」ということにはなる。でも、日本の専任とは全く違うんですよ。日本基準の「専任」はアメリカではテニュア(期間の定めのない労働契約)を持っている意味なので。

以前にこの人が「ペンのPh.D.」というのがどうしても解せなくて、またアメリカの博士論文アーカイブにも載っていなかったので、ペンに直接問い合わせたところ、「デジタル化はしていないけれど、ペーパーでは残っている」と返事がかえってきた。それが2年前。その後、このコロナ禍でアメリカ行きは延期せざるを得なかったので、図書館(Van Pelt)で確認できていない。

家族連れでペン大の博士課程に入り、コースワークをこなしながらたった3年で博論を仕上げたというのも、かなり無理があるように思う。普通博士課程は本国人でも最低5年はかかる。それを外国人、しかも家族連れでそんなに短期間で修了できるのか、かなり疑問である。それで上の問い合わせとなった。

これはあくまでも私の個人的な推察ではあるけれど、彼にはペンに何か強い支援グループがあったのでは。ペン大のあるフィラデルフィア郊外には大きなコリアンコミュニティがある。大学関係者もいるだろう。1970年当時はすでに根を下ろしていた人もいて、その人たちが彼の論文執筆を支援したのではないだろうか。その疑念が拭えない。

『学習院経済学論集』に掲載された論文は日本文のものも英文のものも読んだけれど、1970年代からずっと視点というか論点の発展はなかった。ずっと同じそれもネット検索をかけても出てこないような古びた理論を援用、調査する地域が変わるだけの陳腐なもの。ただ、小室の「論文」もどきとは違い、一応「仮説を立てて問題提起をし、演繹的に結論づける」という学術論文の体裁をとってはいた。一応「学者」なので当然か。

訃報がこれまでのモヤモヤをより掻き立ててしまったので長くなってしまった。美智子前と企んだ「川島王朝」が成立困難になったことは慶ばしい限りである。マコの結婚と相まって、秋家崩壊、解体の予兆かもしれない。