yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

美智子前と秋篠宮一家の浪費・濫費は膨張する一方!ここに会計監査を入れるには自公政権に鉄槌を下すしかない

Yahoo Newsの記事、「上皇ご夫妻、改修中の旧赤坂御所をご内覧」には怒りのコメントが集中した。曰く、「今仮住まいとする高輪邸を退去し、旧赤坂御所の改修に70億円も使うのはあまりにも自分勝手ではないか。コロナで疲弊している国民の惨状を考えれば、看過できない贅沢であり、浪費である。費用はそっくりそのままコロナの後始末に寄付すべきだ」という主旨のコメントがほとんどである。ただ、4時間ほど前に確認したときよりも、コメントが激減している。おそらく、例によって美智子前の指令を受けた(雇われ)工作要員の仕業だろう。

見るも無惨な老醜をここまで晒しても、なおエゴを通すというその姿勢には寒気さえ催す。雅子さまがこの妖怪にどれほどの仕打ちを受けてこられたのかを想像すると胸がキリキリと痛む。それはマコが騙っているPTSDよりもはるかに深刻な精神的障害だっただろうと推察できるから。

この人がいかにおぞましい計略、謀略のもとに、皇統を自らの不実の果実である秋篠宮に移そうとしているかは、このブログの記事で再三考察してきている。この妖怪の屈折した心理は常人の私には到底理解しがたい。しかし、一応演劇に関わる一個人としてこれを観察すると、少しはドラマの一端がわかる気がする。同時に、一つのドラマとして見ても、常人を超えた負のエネルギーの強さに、唖然とする。

この人のエゴは肥大する一方でとどまるところを知らないのだろう。それは昭和天皇の侍従長だった入江氏を辟易させ、嫌悪させるものだったことは、当ブログで例証している。悪に手を染めてしまった。というよりも本人自体がそれだったのかもしれない。その結果が現在の惨めな姿といえるだろう。

f:id:yoshiepen:20211006233508p:plain

この人を見るとゾワゾワと悪寒がする。見たくないものをみてしまった!お祓いをしなくては!

プラクティカルなことに話を戻すと、新築、改修工事については秋篠宮家も同罪である。それについては以前の当ブログ記事にもしている。

www.yoshiepen.net

こういう浪費を許していいのだろうか。否!である。この際皇室に会計監査を入れる必要を訴えていくべきではないか。今上天皇、三笠宮、高円宮ご一家については清廉潔白で、浪費はない。しかし平成夫妻と秋家は平成期から現在に至るまで湯水のごとく血税を蕩尽し尽くしてきている。だから皇室全体に会計監査が入ることで、彼らがいかに国民の血と涙の結晶である税金を無駄遣いしてきているかが、白日のもとに晒される。

ただ、今の自公政権にはそれを期待できない。そこで戦略を立てた。きたる衆院選では、立憲民主、国民、そして共産党等の明らかに自民党と対立する野党、そしてその候補者に投票する。小選挙区なので野党候補にはムラがある。だから、自公以外の候補に投票する。比例では共産党、立民に投票する。とにかく「自公以外」に徹する。

そうでもしないと、安倍が牛耳る現政権を覆すことは不可能である。秋篠宮と結託した安倍とその同志が、皇統を秋家、もしくは「旧皇族」に移そうとあくまでも画策するだろう。「男系男子」の旧皇族なんて正統な皇統かどうか危うい。というのも、主張の根拠である「Y遺伝子」なるものは実にfragileで、長い歴史の中でたち消えている可能性大だから。

未だに古色蒼然たる主張を繰り返す連中はバカなの?それとも皇統転覆の陰謀?DNA鑑定は必須になるだろうけれど、そうしたら秋篠宮そのものが上皇の子でないことが明るみに出てしまう。

先日実に刺激的な政治批評映画、『パンケーキを毒味する』を見た。映画評をリンクしておく。

eiga.com

共産党、立憲民主党寄りに多少偏った映画だという印象はあるものの、自民党が長期政権で腐敗、堕落したさまが実にリアルに描かれていた。力作である。マイケル・ムア監督のブッシュ政権批判映画、『華氏911』 (2004) 、『シッコ』(2007) を彷彿させるものだった。ただ、強く感じたのはブッシュ政権よりも自公政権の闇と病弊の方がはるかに深刻であることだった。その闇の一端を菅義偉という一見無能な総理を通して描いているところが、実に秀逸だった。

この映画の中で「そうだ!」と賛同できたのが「官房機密費」を政府が自由に使い放題だという箇所だった。そう、公開する必要がないこの官房機密費を秋篠宮家に流しているんですよね。だから会計監査は官房機密費にも必要です。はらわたが煮え繰り返るくらい、腹立たしかった!

 

映画の最後に出てくる(声を上げ、抵抗することができないままに)次々と殺されてゆく「羊」にならないために、できることは目一杯しなくてはと思った。それは選挙での一票です。