yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『彼岸にて』by 浦田保親x アンサブル九条山@京都府民ホールアルティ8月6日

クラッシック音楽と能とのコラボという面白い試み。どんな発見があるのかと期待に胸躍らせて参加した。

通奏低音になっているのは、最初の楽曲を作曲した早坂文雄氏の唱える「汎東洋主義」思想といえるかもしれない。西洋音楽の枠組みはそのままに、内容を東洋的なものにある意味無理やりに置き換えてしまうという試み。なんとか西洋を東洋的に解釈、置換しようとした早坂氏の熱い想いが伝わってくる。

この「実験」そのものはかなり無謀なものに思えるかもしれない。しかし、実際は抵抗なくすんなりと受け入れられるものになっていた。それはもちろん演奏者が若い現代人、それも女性であることと、そして受容する観客の多くが日本人であることと関係しているかもしれない。西洋音楽のソッリドな枠が日本人の女性演者を得ることで、どこか東洋的なものに変容しているのはごく自然なものとみえた。

私自身のケースでいうなら、オペラであれバレエであれ西洋音楽のものは日本人の演奏者、演者には無理だと思ってきた。実際、日本人の舞台には常にどこかまがい物感を感じてしまっていた。でもこの日の舞台はそういう違和感とは違った感慨をもたらすものだった。違和感がなかったとはもちろんいえないけれど、それでも一つの試みとして、すんなりと受け入れられる広がり、奥行きがあった。演奏者の鬼気迫る演奏にそれは起因しているのかもしれない。でもそれ以上に、浦田保親師の舞の変幻自在の舞のあり方にその理由のほとんどがあるような気がする。

思うに、浦田師は能のシテ方であるというアイデンティティを一旦消して、トリックスター的な役をあえて買って出られたのではないか。つまり西洋的な演劇の必須条件である主体性を捨象し、その上で新しいrole(役柄)を自身に負わせることで、西洋と東洋との垣根(boundary)をあえて踏み越えようとされたのではないか。

プログラムをあげておく。

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前半部ではアカペラで歌われる太田真紀さんの美しい声に合わせて浦田師がいつもの袴姿で舞わられた。さらには石井眞木さんの強烈なドラム演奏では、舞台をくるくると回転しつつ周る場面が、いかにもトリックスター的だった。それにしても所作が美しい。 

後半部のメシアンの「四重奏曲」では女性の面と装束を着けての舞になった。タイトルの「彼岸にて」はレクイエム的な曲調と、彼岸から此岸に戻ってきた亡霊との合奏になっていた。1から8までの小題それぞれに合う楽器が単独で使われ、それがやがては他の楽器を引き込んでの合奏という構成。クラリネット奏者の演奏が特に繊細で素晴らしかった。それぞれの楽器はその特徴を生かしたもので、そこに彼岸的な要素を孕ませる工夫がなされていた。

 

浦田師の舞は楽器の演奏に合わせ、楚々と、時には狂乱の渦に乗りながらドラマチックに彼岸・此岸の行き交いを演じて見せていた。特に狂乱の部分での激しい舞は、楽器の合奏を時として煽りながらの、またそれを纏めながらの緩急自在なものだった。二度登場されたのだけれど、いずれもが中途、最後に疾走が入り、目を奪われた。能舞台とは違った感興に酔った2時間だった。

こういう西洋音楽と東洋の舞のコラボは初めてだったので、しかもそれぞれが相手を生かしてのコラボだったのがうれしかった。