yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

三島由紀夫が言明「美智子さんが皇室からディグニティをなくした」in『楠田實日記』(中央公論新社、2001年)

私のライフワークである「三島由紀夫」。先月の25日に自刃後50年が経過したけれど、日本のみならず世界にその偉業は燦然と輝いている。お粗末ジャーナリストもどきの工藤某が「美智子さんとのお見合い」について、三島を貶める文章を底辺週刊誌に書いているらしい。「身の程をわきまえろ!」と言いたい。まあ、まともな人からは相手にはされないでしょうけど。

正田家が三島との見合いの席で「試し乗りを提案した」ことを三島は公表していませんよ。宮内庁が三島に問い合わせたところ、三島のご母堂が明らかにされたとか。本当に恥ずかしい。もちろん三島ではなく提案した美智子さんとその母の富美さん。いまさら取り繕うのは無理です。この2年ばかりで、美智子前のやりたい放題のおぞましい雅子さま虐め、加えて(衣装代等)巨額の浪費が、ネット社会のおかげで一般に広く知られることになった。それが今もなおネットを通じて拡散中である。日本の、否世界の嗤い者ですね。今までの所業の悪さ、酷さも明るみに出ています。もう引き返せませんね。どう足掻こうが、もはや時代はあなたの先を行っているのです。いい加減観念した方がいいですよ。

三島由紀夫と美智子前との「接点」の一つに、深沢七郎の『風流夢譚」を採り上げたことある。三島は裁判では深沢擁護の証言をしたという。「なぜ?」という思いが私の頭を離れなかったのが、この人の性の奔放さを三島が「試し乗り提案」として知っていたということで、辻褄があったように感じた。

タイトルにあげた『楠田實日記』は、1967年から1972年の7年間にわたり佐藤栄作首相の首席秘書官を務めた楠田實氏が書き綴ったもの。彼の日記の中に三島自身の当時の皇室と当時の美智子皇太子妃への言及があるのを知ったのはガルちゃんへの投稿から。ありがとうございます!ガルちゃん検証班の方々の優秀さに日々感服、感謝しかありません。これもネットの発達のおかげなんですよね。今のようなネット社会なら、美智子さんも紀子さんも皇室に入り込むのは無理だったでしょう。小室と似た者同士ですものね。だからこそ、一つの象徴的事件として、小室は排さなくてはならないし、秋篠宮(一家)にDNA検査が必要なんです。結婚前から性的に奔放だった美智子前皇后。秋篠宮は本当に上皇明仁の子なのか?こんな問いかけをしなくてはならない皇室なんて、歴史上ありましったっけ!

気を取り直して、以下三島が美智子さんに言及している日記箇所。

(1967年)7月24日(月)

総理、夕刻上野着(18時10分)。迎えに行く。官邸へ来たり、三島由紀夫氏とその母堂と夕食。寛子夫人から言われ、これに参加。本野、田中両君と東大の衛藤瀋吉氏と「賀寿老」で飯を食うことになっていたが、両君にこれを任せ、三島氏の話を聞く。

話は自然と三島氏の自衛隊体験談から。

 

三島氏:青年に執銃体験をさせる必要がある。民兵を作っていくべきだ。防衛庁が民間人に射撃訓練を禁止したのはいただけない。総理の力でこれを撤回させてください。日本は自分の力で守らなければならない。守る力があることを青年に自覚させる必要がある。初めは純然たる民間の力で兵を養い、一定期間が来たら、政府の所管にするようにする。自衛隊も防衛大学校を出た一尉クラスは期待が持てる。しかし天皇をもっと前面にだし、勲記や勲章は天皇の手で渡されるようにしてほしい。今の皇室は羹にこりてなますを吹いている。小泉信三氏のやり方は皇室からディグニティをなくした。バイニング夫人の起用然り。美智子さんを押し付けたのも然り

総理: 山岡鉄舟みたいな人が必要だね」。

三島: 確かにそうです。今の皇太子も万事お付きの人の顔色を見てやってい る。こんなことでは困る。

総理: 浩宮はいいよ

三島: しっかりとした教育掛りをつけなければ。

 

三島氏は石原慎太郎氏より大人だという感じ。終わって三島氏、母堂を伴い「賀寿老」へ。衛藤、本野、田中君と合流。三島氏と本野君は学習院で同級生だったとのことで、話が大変弾み、11時半頃まで。(文中、太字は私のもの)

三島は佐藤栄作総理にかなり胸襟を開いて、忌憚ない意見を述べている感じがする。とくに、「小泉信三氏のやり方は皇室からディグニティをなくした。バイニング夫人の起用然り。美智子さんを押し付けたのも然り」の行は重い。私が信じてきた小泉信三氏像が根底から崩れてしまった。

私は中・高は神戸女学院というミッションスクールで学んだのだけれど、小泉信三は常に尊敬の対象とされていたことを思い出した。「騙されていた!」と腹立たしい。ヴァイニング夫人についても常々賞賛しか耳に入っていなかったので、かなりショックを受けた。先ほど調べたらなんとフィラデルフィア出身。のちにクエーカー教徒に転向したとか。もともとかなり過激な思想を持っていたこの人をあえて当時の皇太子だった明仁さんにあてがったのは、GHQの陰謀だったのかも。敗戦占領下の日本、昭和天皇もGHQの意向に逆らえなかった。それが現在の著しい皇室汚染につながっているのが口惜しい。三島はこういう未来まで予測していたのだと、その慧眼に感服する。

全ての元凶は美智子さんの入内にあった。それが紀子さんの皇室入りを許すことになり、その結果としての現在の小室事変へとつながっている。当時の皇族の方々がこぞって反対した美智子さんの皇室入り。それがなければおそらく現在の惨状は防げただろう。でもそれだと今上陛下も存在し得なかったことに思いを致すと、思いは複雑ではある。今上陛下の素晴らしさは、佐藤総理もしっかりと認識していたようですね。日記の概要は以下。

『楠田實日記——佐藤栄作主席秘書官の2000日』(東京、中央公論新社2001年9月10日初版刊)

楠田實氏が佐藤栄作首相の秘書官を務めた1967(昭和42)年5月から1972(昭和47)年6月の期間に書き綴った大学ノート40冊分の日記を編纂したもの(和田純記)

この日記を所蔵している図書館が少なく、一昨日大阪市立中央図書館まで出向いて借り出すことができた。パラパラと目を通しただけでも資料として桁外れの重要なものだとわかる。戦後の高度成長期の日本の政治、それにかかわった当事者たちの実態がパノラマのように展開するのに、まるでドラマを見ているかのような錯覚に陥る。単に事実を列挙するのではなく、楠田氏の率直な感情が随所にあって、それを通して生きた歴史に参加している気分になる。楠田氏の文才によるのでもあるけれど、それ以上に波乱に富んだ事象の連なり、繋がりが怒涛のごとく押し寄せてくるから。政治学が私の分野なら何本も論文が書けそうなぐらいの充実度である。

楠田實(1924-2003)は日本陸軍に従軍、戦後早稲田を卒業、産経新聞社に入った。政治部に配属、その後大蔵大臣だった佐藤栄作の番記者になる。佐藤が自民党の総裁選に出馬するにあたって佐藤オペレーション(Sオペ)」を組織、公約作りを担う。その後、1964年に佐藤が総理大臣になった後も私的ブレーンとして活動していた。1967 年3月に佐藤の首席秘書官に任命され、佐藤が総理退任の1972年まで佐藤に仕えた。非常に人間味を感じる日記で、戦後の日本政治を知る上で、なくてならない資料といえるだろう。私の専門が歴史、文化人類学、あるいは法学ではないので、このよだれの出そうな貴重な資料を活かす方法がわからない。ただ、上に引用したように、三島と佐藤とのやりとりの中に当時の皇室が透けて見える気もする。楠田實氏が実に読書家であり、それを通して刻々変化する世情をキャッチしていたとわかる。また文化人との交流の中に日本の立ち位置を模索していたこと、加えてそれを佐藤総理の政治に生かそうとしていたことがひしひしと伝わってくる。

貴重な資料である『楠田實日記』、巻末に索引がついていて、これも非常に役立つ。私の分野が政治、歴史であればまさに垂涎。キラ星のごとくの人名の中に雅子皇后陛下のお父上、小和田恆氏のお名前が。なんと15回の言及である。色々な草案を依頼するという内容が多い。当時の外務省で、もっとも優秀、そして信頼できる方の一人だったとわかる。

この日記出版の総合監修をしたのは当時神戸大学法学部教授だった五百旗頭真氏。五百旗頭は美智子さんのテニス仲間?ということでネット民の評判が芳しくない。カトリック教徒で美智子さんとの繋がりがいわれている。Wikiで見るとなんとご近所の西宮市夙川出身とか。夙川カトリック教会の信徒さん?しかも宮内庁参与に最近任命されたとか。中高はカトリックの六甲学院なんですね。

『楠田實日記』の巻末に付けられた五百旗頭著の「解題ーー『楠田實日記」で読む佐藤政権」は法学者としての良心が感じられるもので、しかもレベルがとても高いのに感動した。ここまで明確に『楠田實日記』を評価する人が、それも極めて冷静、客観的な批評をする人が皇室の在り方に、美智子前や秋篠宮のいかがわしさに同調するとは思えない。この解題の中で実に正鵠を射ていると思ったのが以下の部分。これは五百旗頭氏の楠田實評価であり、また佐藤栄作政権への評でもある。高い見識に支えられた、この解題だけでも一読の価値がある。

高学歴化の中で膨らむ中間層へ語りかけるには、古い国家主義でも、左翼イデオロギーでも不十分である。欧米先進国の国際水準において通用する知的構想力と表現力を持って斬新な政治を展開せねばならない。その点、タカ派からは国民受けするきれいごとを言いすぎるとの批判を受けることのある木村俊夫官房(副)長官について、「政治は一本槍で進むべきではなく、時には相手の立場も認めてやる柔軟さが必要だ。その点、僕は木村氏のセンスを買う(68・1・22)と楠田日記は表明している。楠田たちは、先進諸国が共通に迎えつつある高学歴市民社会の文化に対応できる政治を模索したのである。そのような国際競争力のある政治を支えるため、梅棹忠夫、京極純一、高坂正堯、山崎正和らの学識や文明論を間接的ながら佐藤政治に組み入れようとしたのである。(965頁)