評判の漫画のテレビドラマ化らしいのだけれど、最近まで知らずにいた。元旦に放送された『きのう何食べた?正月スペシャル2020』でみて、ファンになり、アマゾンプライムで全回を視聴した。よしながふみさんの原作をテレビ東京系で配信したもの。「girls culture」に載っていた画像をお借りする。
ジャンルとしては「料理漫画」らしい。まず「トランスジェンダーと料理との組み合わせ」の斬新さ(?)に仰天した。同時に「この手があったか!」と感心した。脚本は安達奈緒子さん。主たる演者は以下。
キャスト
- 筧史朗 - 西島秀俊
- 矢吹賢二 - 内野聖陽
- 小日向大策 - 山本耕史
- 井上航 - 磯村勇斗
- 三宅祐 - マキタスポーツ
- 三宅レイコ - 奥貫薫
- 上町美江 - 高泉淳子
- 上町修 - チャンカワイ(Wエンジン)
- 小山志乃 - 中村ゆりか
- 麻生美香 - 松山愛里
- 早乙女エリ - 椿弓里奈
- 筧悟朗 - 田山涼成
- 筧久栄 - 梶芽衣子
Wikiにアップされた「あらすじ」は以下。優れた解説。
「シロさん」こと筧史朗と「ケンジ」こと矢吹賢二の2人は、史朗の部屋で同棲するゲイ・カップルである。 ゲイである事を隠しながら弁護士として働く史朗は、慎ましいストイック気味の倹約家であるが、きりっとした男前の見掛けによらず優柔不断な一面も持っている。 将来に備えた家計管理の一つとして2人分の食費を月2万5千円(後に3万円)に収める事を目標にしながらも、仕事は最小限に定時で切り上げてまで2人の食事をつくる事に喜びを感じている。 片やゲイである事を隠しもせず美容師として働く賢二は、自分の「愛」に一途なロマンティストでありながら見た目に反して自分に厳しい一面も持っている。 そんな2人が、お互いの価値観の違いやゲイ・カップルである事ゆえの葛藤と向き合いながら、2人で一緒にいる事の意味を確かめ合って絆を深める姿を「食」を通して紡ぐ物語。
料理という最も日常的なものを通して、シロさんとケンジのゲイ・カップルの「非日常的」関係を描いている。性格も、育った背景も、さらには現在の職業も、あまりにも異なった二人。一見埋めようもないギャップがあるのに、ゲイということで結びついている二人。ギャップが行き違いになり、トラブルにもなり、いさかいにもなるけれど、最後はシロさんの作った家庭料理を同じ食卓で食べることで仲直りをする。さらには違いそのものをいとおしむことに力点が置かれている。
だから料理は二人の間の潤滑油であり、生きるエネルギー源でもあるわけで、料理が主役かとも思えるほど。買い物から始まる材料の吟味、調理の仕方、調味料の使い方等料理を長く作ってきている私にも参考になることが多い。毎回、よだれの出そうなほど美味しそうな料理を見せびらかしている。見ているだけで、こちらも幸福な気分になれる。
しかも、家計を預かる主婦ならぬシロさんは、食費管理も徹底的に行ってのけている。さらに、おかしいのは、体型維持のためのカロリー計算までやること。われわれの日常とほとんど同質の、たしかな「生活感」に満ちている。
主役役者二人も、一見リアリティがなさそうで、その実しっかりと造型に成功しているのがニクい。おそらく女性好感度トップクラスの西島秀俊が、シロさんというどちらかというと、自意識が少なく、非アグレッシブな役柄にピッタリ。美形なので、意外性がより面白い。対する肉感的な外見の割には少女チックなケンジを、「怪優」(性格俳優?)の内野聖陽が演じて、意外や意外のツボである。二人ともおそらく今までに演じたことのないキャラだったのでは?
もっとおかしいのは、二人が次第に年をとってゆく様をリアルに過酷に描き出していること。つまり、劣化する肉体に刻まれてゆく「年=老い」を直視し、互いにそれを容赦、共有することが、二人の日常になっている。その点では普通の夫婦と同じだけれど、それをゲイ・カップルという制度からは外れた二人が共有している。だから制度からの締め付けは当然あるわけで、それが緊張感になり、トラブルを起こす原因にもなっている。切なく悲しい関係ではあるけれど、それでも、それだからこそ、一層絆は強まっている(ありきたりな表現ですみません)。
アメリカでは今新しい趣向の料理番組が全盛だという。だから、この『きのう何食べた?』を英語版で配信したら、きっと受けるだろう。特にシロさんの調理する様とその手順のかっこよさが女性の琴線に触れること間違いなし。
この作品が衝撃だったのは、思わず『ブロークバック・マウンテン』(Brokeback Mountain)』(2005)と比べてしまったから。こちらもゲイ同士の愛を描いてはいるけれど、制度に仲を割かれ、はじき出され、片方(ジャック)の死と、もう片方の(イニス)の隠遁という結末を迎える。非日常は日常に否定され、組み伏されてしまった。
この映画でも二人が山の上のキャンプで料理(ともいえない調理?)をする場面が出てくるけれど、それは原始的であり、いかにも社会からのはみ出しものの食べ物を象徴するものだった。二人が味わって、楽しみながら時を共有している感じはなかった。もちろん映画の主旨は日常を描くことにはないわけで、あまりにも当たり前ではあるのだけれど。でもあの苦しみ、悲しみに、料理という日常がはめ込まれたら、どんなホームドラマになったのかと、考えてしまった。
キリスト教がらみでトランスジェンダーにはとても厳しいアメリカという国の特殊性はあるけれど、それでもいつか日常が共有できる二人になり、「共白髪(!)になるまで、互いの肉体も関係も共有できていたら」なんて、思った。フィラデルフィアでこの作品を20回も観劇したのは、彼ら二人の将来になにがしかの「日常」が開けるのを確認したいという願望に突き動かされてのことだったと、今になって思う。
もっと冷静に、客観的にこの二作品を対照させてみるなら、日米の社会的、宗教的な背景を踏まえた上で、この二作品を比較する論文がかけそうだなんて、考えたりしている。