yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

美智子前皇后の皇室入りに反対された梨本宮妃、梨本伊都子さんの慧眼

 

パリモードが似合う伊都子梨本宮妃のローブデコルテ姿

最後の貴婦人と呼ばれた梨本宮妃、伊都子さん。皇族時代も、またその後もその﨟たけた美貌は夙に有名だった。Wiki からそのローブデコルテ姿をお借りしてアップする。まさにパリモードに身を包んだ貴婦人。

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また夫君梨元宮とご令嬢二人との家族写真も、Wikiからお借りする。長女が李氏朝鮮最後の皇太子、李垠妃となった李方子さん。*1

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伊都子妃はなぜ正田美智子の皇室入りに反対したのか

梨本伊都子さんが従姉妹に当たる香淳皇后(昭和天皇皇后)、妹の松平信子さん、その長女で秩父宮妃の勢津子さん、高松宮妃の(徳川)喜久子さん、柳原白蓮氏たちと、美智子前皇后が皇太子妃として皇室に入ることに反対されていたことを、最近知った。Wikiでは「この猛反対は民間人への差別的な意図ではなく、民間で育った女性が突如皇室という特殊な世界に嫁いで、妃としての務めが出来るのかという心配によるものである」との注が付いていた。確かにもっともな危惧である。

彼女たちの危惧が現実になったことを、私たちはその60年後に知ることとなる。「妃としての務めの重さ」、それは「ノブレス・オブリージ」(財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うという意味)ともいえるだろうけれど、それを「旧皇族からの(新)平民へのいじめ」という被虐ストーリーにすり替え、チープなハリウッド・ファッションに身を飾り立て一大芝居を打った(今も打っている)三文女優を、私たちは目撃している。そこに、その衣装に費やされた三千億円とも言われる税金にため息が出てしまう。「ノブレス・オブリージ」の片鱗も見えない。

その虚飾にまみれた、「堕ちた偶像」と際立った対照をなすのが伊都子梨本宮妃である。日露戦争中は看護師資格をとって救護活動に携わり、大東亜戦争(太平洋戦争)中には他の皇族女性たちと看護、慰問に取り組んだことは、その日記に詳細に書かれている。誠心誠意の活動だった点で、どこかの「演技としての自分見せ」の「女優」とは大違いである。文字通り心血を注いで救護活動をされたことが日記に窺える。本当に皇族女性として、尊敬に値する方だったんですね。

梨本伊都子著『三代の天皇と私』

貴重な歴史資料として

伊都子妃の日記は、明治32年から大正を経て昭和51年に渡るまで綴られたもので、それだけでも貴重な歴史資料、文献であり、貴重な参考資料として、しばしばとり挙げられている。晩年には、ご本人がご自分の日記を元にして『三代の天皇と私』(講談社、1975)を上梓されている。日常生活を淡々と綴られているのだけれど、鍋島藩のお姫様から皇族妃、戦後は一平民としてめまぐるしく変わる立場に振り回されながらも、元皇族としての誇りを胸に94歳まで生きられた。その日記は、まさに激動する時代、社会を一女性の視点からから描くという点で、稀有な「歴史書」である。文章も衒いがなく自然体で、文筆家として稀にみる才能といえる。三文女性週刊誌が愛読書である人とはまるで違う。この本には晩年の彼女と昭和天皇、皇后、そして皇太子夫妻が「東久邇宮家」一族として祝っている写真が付いていて、興味深かった。

歌舞伎ファンだった伊都子さん

この伊都子さん、高貴な方ではあるのだけれど、可愛らしい面もお持ちだった。歌舞伎ファンで、特に十五代目(市村羽左衛門)がご贔屓だったようで、なんとかチケットを得ようと、羽左衛門に頼み込んだとか。そんなエピソードにも親近感を感じてしまう。

伊都子さんは父の鍋島藩主、鍋島直大氏が駐イタリア王国特命全権公使時代にイタリアで生まれたので「伊都子」と命名されたという。彼女のどこかラテン的な弾けぶりも、その名前から来ているのかも?

戦後の困窮にもめげずに立ち向かった

戦後皇籍を剥奪され、一切の皇族特権を剥奪され、屋敷を焼かれ、別荘、貴金属の類は全て没収された。それにもかかわらず、税金はたんまりと取られて、その日暮らしのような生活の中に放り出されてしまう。非常に困難な中にあってそれでも、否それだからこそというべきか、凛とした、清々しい生き方を貫かれたその華族・皇族としての矜持が感動的ですらある。

皇族としての矜持

伊都子妃は歴史的大事件の目撃者でもある。「敗戦後すぐに昭和天皇が戦後皇族たちを集め、彼らの皇族としての地位はなくなり、財産もGHQの手に委ねられたことを告げたとき、彼らのうち誰一人として、反論しなかった」と、その日記に記している。ここに旧皇族方の潔さをみる。今のA宮とのなんという違い!あくまでも自分たちの安寧しか考えず、そのためには国民なんて犠牲になって当然とする傲慢さ。それは出自の卑しいその妻も同様である。また、その娘たちもしっかり引き継いでいる。あなたたちこそが「身の丈にあった」生活をすべきでしょう。

伊都子さんは、気落ちする夫の梨本宮さまを支え、戦後を生き抜いた。経済的な困窮のなかで、気丈に困難に立ち向かわれた。しかも、晩年になってからも、その気品の高さは写真から匂い出ている。比べるのも気がひけるけれど、ほぼ同世代の伊都子さんと美智子前皇后とのなんという違い!品格が違う、美しさが違う。もちろん伊都子妃が圧倒的勝利。平成の女人は、まるでウスッペッライ傀儡の虚像にしか見えない。品がまるでない!

小田部雄次著『梨本宮伊都子妃の日記:皇族妃の見た明治・大正・昭和』

小田部雄次氏が伊都子妃の日記を元に『梨本宮伊都子妃の日記〔小学館文庫〕: 皇族妃の見た明治・大正・昭和 』(小学館、2008)を著している。これは日記の背後の歴史、社会情勢をつけ解説したもので、近代史の解読書にもなっている。

 鹿島茂著『セピア色の皇族アルバム』

そもそも梨本伊都子さんのことは、鹿島茂著『セピア色の皇族アルバム』(2006)によって知った。美しいローブデコルテを纏った女性の写真が表紙になっていたのだけれど、それが梨本伊都子さんだった。アマゾンのサイトをリンクしておく。その表紙写真が以下。

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この美しい表紙の本を発見したのは、昨年末に近隣図書館で美智子前皇后関連の書籍を漁った折である。美智子前皇后上げ本については、以前当ブログの記事にしている。この鹿島氏の本が、単にtrashに過ぎない「美智子ファッション本」洪水に埋もれていることが、腹立たしい。

夥しい「美智子ファッション」写真集と『セピア色の皇族アルバム』の落差

そもそも皇室そのものに関心がなかったせいで、ここまでおびただしい数の「美智子上げ本」が出版されていることに、心底驚いた。またその多くがファッションのものだったのにも、さらにビックリした。まさに写真だらけ。借り出したら、こちらの知性も疑われるから、ざっとその場でスキムした。彼女のファッションにはまったく興味がそそられなかったけれど、いかにも付いている文章の「素晴らしいセンス!」という語調に、辟易してしまった。「どこが?!」と。あとで、これらがハリウッド・スターたちを真似したものが多かったことを知り、一体どれほど女優気取りなのか、皇室にふさわしい人だったのか、疑問が膨らんだ。それらの衣装に莫大な税金が使われていたことを知り、それは怒りに変わった。何しろ三千億円超えというのですから。

『セピア色の皇族アルバム』の内容紹介をアマゾンからお借りする。

皇位継承問題で、何かと話題の宮家の存在。戦前に発行された『皇族画報』、『皇室御写真帖』から、昭和初期のすべての宮家の写真を掲載し、そもそも宮家とは何だったのか、フランス文学・歴史の専門家が考える。庶民の憧れの的だった最新パリ・モードやスポーツを、皇族の写真で紹介しながら、補われるべき歴史の凹部ともいえる旧皇族の存在を近代日本の文化的側面の牽引者という役割に光を当てる。 

鹿島茂さんの衒学ぶりが窺えたANA機内誌、『翼の王国』

鹿島茂さんといえば、ANA機内誌、『翼の王国』でのいかにも古(稀)書コレクター的衒学ぶりに常に感心していた。確かに『皇族画報』なんて、その手の方の興味を惹くテーマですよね。フランス文学の方で、その独特の世界観から照らして、確かに旧皇族方のヨーロッパ貴族に倣った衣装は外せなかったのでしょう。特に女性たちのそれは。素敵な解説書になっている。

*1:

日本皇族としての誇りを終生失わず、韓国に夫と共に戻ってからは、身を挺して福祉活動に携わられた。それは博愛の慈愛精神を具現化した母伊都子の生き方に倣ったものでもあった。Wikiには次のように記載されている。

「韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児肢体不自由児)に取り組んだ。趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮王朝の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。」