yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ソープオペラがここまで荘厳に!METライブビューイング『アドリア―ナ・ルクヴルール』 @神戸国際松竹 2月27日

公式サイトからお借りした画像が以下。

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ネトレプコの猛烈パワー

ネトレプコはその歌唱の猛烈なパワーと、演技とは思えないほどの役への「のめり込み」で、彼女が世界最高峰のディーヴァであることを見せつける。有無をいわせず見るものを組み伏せてしまうその魅力!誰も抗えないだろう。『アドリア―ナ・ルクヴルール』のソープオペラもどきの陳腐さが、彼女にかかると崇高なオペラに変身するという現場に、私たちは立ち会うことになる。彼女のためにあるオペラ作品であることを、納得させられる。この作品が彼女というディーヴァを待っていたのだと、思い知らされる。以下、作品あらまし。

ネトレプコはその歌唱の猛烈なパワーと、演技とは思えないほどの役への「のめり込み」で、彼女が世界最高峰のディーヴァであることを見せつける。有無をいわせず見るものを組み伏せてしまうその魅力!誰も抗えないだろう。『アドリア―ナ・ルクヴルール』のソープオペラもどきの陳腐さが、彼女にかかると崇高なオペラに変身するという現場に、私たちは立ち会うことになる。彼女のためにあるオペラ作品であることを、納得させられる。この作品が彼女というディーヴァを待っていたのだと、思い知らされる。

作品あらましと配役

作曲      フランチェスコ・チレア

初演      1902年11月6日、ミラノ・リリコ劇場

なおWikipediaによると、本作品は「新イタリア楽派」オペラの佳作であり、チレア作品としてはもっとも頻繁に上演されるという。以下、公式サイトから。

指揮      ジャナンドレア・ノセダ

舞台監督    デイヴィッド・マクヴィカー

 

女優を女優が演じる。

18世紀パリの人気劇場コメディー・フランセーズの女優“アドリエンヌ・ルクヴルール”(1692~1730)を、現代オペラ界きっての大輪の華アンナ・ネトレプコが歌い、演じる!

 

オペラの舞台は1730年春、パリの愛すべき劇場。コメディー・フランセーズの女優アドリアーナ・ルクヴルールは、旗手に身分を隠したザクセン伯爵マウリツィオと愛し合っていた。しかしブイヨン公妃もマウリツィオに想いを寄せている。いっぽう劇場の舞台監督ミショネはアドリアーナに恋心を抱いている。初老の彼は、少しためらいがちに。

ある「事件」をきっかけに、アドリアーナとブイヨン公妃はお互いの胸の内を知ってしまった。マウリツィオをめぐる恋敵として烈しく渡り合う二人。ブイヨン公妃は、毒を仕込んだスミレの花束をアドリアーナ・ルクヴルールに送りつける──。 

配役は以下。

アドリアーナ・ルクヴルール       アンナ・ネトレプコ

マウリツィオ(実はザクセン伯)        ピョートル・ベチャワ

ブイヨン公爵              マウリツィオ・ムラーロ

ブイヨン公妃              アニータ・ラチヴェリシュヴィリ

ミショネ(舞台監督)          アンブロージョ・マエストリ

なお、Wikipediaにも詳しい内容解説が載っている。リンクしておく。

アドリアーナ・ルクヴルール - Wikipedia

 

舞台成功の立役者ー歌手たち、舞台監督、指揮者

歌手たち

男女の三角関係と恋敵の毒殺なんていうのは、ドラマチックではあるものの、いかにもソープオペラ的陳腐な設定。ともすればセンチメンタルになるギリギリのところで踏みとどまっているのは、ひとえにネトレプコの歌唱に負っていると思う。彼女がリリックを我がものとするとき、そこにミューズが降り立つ。私が感動したのは、終盤近くにマウリツィオが彼女にプロポーズ、王として自分を受け入れてくれと言ったのに対しての彼女の返答。「いいえ、私の王冠は芝居の小道具(の冠)、私の王座は舞台」というもの。彼女の舞台女優としての矜持に泣けます。今際の際まで女優だったアドリアーナ。感傷を吹き飛ばし、芸術の高みにまで行ってしまったのかもしれない。

 ネトレプコの歌唱はかなり音域が広くて、時としてはメゾに聞こえることもあった。鈴を転がすようなソプラノというのではなく、力強く、どっしりとしている。

 このネトレプコの強靭な歌唱と対抗するのが恋敵のブイヨン公妃を演じたアニータ・ラチヴェリシュヴィリ。こちらもネトレプコに負けないパワーで押してくる。表現力も素晴らしい。また、正確な分析、解釈の上に成立した歌唱だとわかる。押しまくるだけではなく、緻密な計算が見える。ネトレプコと競うには、彼女でなくてはならなかったのですね。二人がこれまた恋敵同士を演じた前シーズンの『アイーダ』をみたかった。再映されれば必ず見にゆきます。

 マウリツィオ役のピョートル・ベチャワも安定した美声。METの常連だけのことはある。演技もきちんと計算した上でのもので、役者としての才能も抜群だとわかる。

 そして、ミショネ役のアンブロージョ・マエストリ!この人が狂言回しを買っているので、変な感傷が排され、舞台に奥行きができた。歌唱も実があって素敵だったけれど、それ以上に絶妙の心理表現に唸らされた。マウリツィオなんて若造よりも数段魅力的に見えますよ、私には。

 

舞台監督

この作品の成功は、新演出をあえて試みた舞台監督のデイヴィッド・マクヴィカーによるだろう。快挙。作品が重くない。軽い。逆にその軽さゆえに、主要歌手の演技力、歌唱がひき立つ。そういう仕様にしているところに、この人の策士である所以があると感じた。歌手の力を信じて、過度な演出をしない。歌手もそれに応えて、自身の解釈をためらいないなく歌唱に込めることができる。見ているのが非常に「楽」だったのは、そこに原因があるのでは。全体がバランスよくまとまっていた。でもチープになっていない。世界レベルのすごい歌手たち。その人たちの力を信じ、彼らが思う存分力を発揮できるようにする。そこに生まれる化学反応を、演出家、マクヴィカーは楽しんでいたような気がする。化学反応はやがてはその行き着くところに落ち着く。生まれ出たものは、今までにない舞台。

 

指揮者

幕間のボレンザーニ氏によるインタビューの中で、指揮者のノセダ氏が興味深いことを語っていた。METのオーケストラは非常にフレキシブルだということ。それぞれの歌手に応じて、柔軟に対応するし、それによって彼らをスムーズに音に乗せるのだという。そうか、今まであまり意識したことがなかったけれど、確かにそれは言えているかも。オケとしての自己主張をせずに、黒衣に徹しているということだろうか。今後はもっと注意して聴きたい。

 

観客数の増加

 とはいえ、小難しいことを言わなくてもこの作品は楽しめます。この日、予想以上の観客数。先日の『椿姫』での観客数の増加に驚いたけれど、今日もその数に驚いた。数年前には十人前後だったのが、今日は五、六十人は行っていた。ただ、シニアがほとんど。「みんなオペラに飢えているんだ」と痛感。