yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

第30回能楽フォーラム「近代の演能空間②」—今考える「外地演能」—」@ 灘高等学校3月21日

主催は能楽学会。昨年から参加できればと思ってきたのだけれど、つい億劫風が吹いて参加し損なっている。(日本での)英米文学系の学会はアメリカに行く直前、帰国後を合わせて3回ばかり参加したのみ。発表のほとんどが院生だったというのが主たる理由。また、欧米の理論を消化しきれないまま援用したシンポジウムのトークやら、古色蒼然とした文献学系のフォーラムを聴いても、時間の無駄のように思えたからでもある。閉鎖的な日本の学界慣習とは随分とコンセプトが異なる海外のものは発表の都度申し込んで、参加してきた。こちらは学際的な(interdisciplinary)ものがほとんどで、自分のフィールドを超えた有意義な話が聞けた。まさに学際的。英語での発表なので、英語圏だけではなく世界中の俊英たちの才気溢れる発表も少なくなかった。参加するたびに発奮したし、何かしら得るものがあった。

今回参加した能楽フォーラムはとても有意義な話が聞けた。ちょうど私の今の関心事と繋がっているように思えて、うれしかった。この学会、誰でも参加できるということだった。どこかの国の演劇学会なんてのと違って、随分とオープン。とはいえ、発表者、構成員共には能楽研究の専門家が多かったように思う。

「外地演能」については今まで手がつけられることが希少だったとのこと。基調講演、中嶋謙昌氏の「『外地公演とは何だったのか』——中国東北部(旧満州)の事例を中心に——」が特に興味深かった。残された資料を当たるというのも、残っているものが多くない場合、あるいは信憑性が低いケースでは至難の技に違いない。それを丹念に掘り起こされ、検証され、一つの仮説を出されていた。外地での演能の場として焦点を合わせたのが大連。ここで能がどういう経緯を経て「根付いて」行ったのか、その過程がまるで映画でも見ているようにドラマチックだった。しかもその節目に喜多六平太、梅若實、梅若六郎なんてレジェンド的な名前が出てくる。思わず身を乗り出して、聴いてしまった。

いわゆる「外地」の定義から始まり、外地での能の舞台がどういうきっかけで始まり、発展し、定着したのか、あるいは定着し損ねたのか。ひとつひとつの論点がパワーポイントで順序立てて提示されるので、極めてわかりやすかった。同時に発表者の視点の取り方が断定的(独善的)ではないこと、資料に謙虚に対峙されていることが、よくわかった。

かなり衝撃的だったのが、日本外での伝統芸能の定着がほとんど無理であったこと。能の稽古をするのは、例外はあっても日本人社会に属する日本人だった。公演もその目的は現地の日本人の遊興のためのもの。現地の人(native)たちの中に能は根付かなかった。もっとも日本でも能が「根付く」のは、今も昔も限られたサークルではあるけれど。つまり、謡、仕舞、囃子の稽古をしている人が大半である。

ひるがえって、外地(人)の能学への評価はいかなるものだったのか。劇的エッセンスを象徴的な舞台に結実させた優れた演劇という評価はなかったのだろうか。また能を現地の芸能に「採りこむ」といった試みはなかったのだろうか。

この6、7月にかけての2ヶ月間、ロンドン大学で英国における能の受容について資料に当たることにしている。「日本人社会」が成立していた旧満州。その地での「能」がどういう実態だったのかをみる限り、日本を離れた地での能の需要/需要は極めて限定的であったのは、想像に難くない。それが欧州であれば、なおさら受容なんてことは無理だろう。ところがごく一部の人間は能の芸術性を高く評価、自身の文芸の中に取り入れ、インテグレイトする目論見を立てる動きもあった。エズラ・パウンド、W.B. イェイツ然り。それを見た、あるいは読んだ当地の人はどう反応・評価したのだろうか。単なる異国趣味への「礼賛」に終わったのか?この辺りを調べるつもりにしている。