yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能『千手 郢曲之舞』in「第19回芦屋能・狂言鑑賞の会」@芦屋ルナホール11月16日

演者の方々は以下。

シテ(千手の前) 長山禮三郎
シテツレ(平重衡)浅見真州
ワキ(狩野介宗茂 福王茂十郎

大鼓  山本哲也
小鼓  久田舜一郎
笛   野口亮

地謡  藤井文雄 水田雄唔 長山桂三 大西礼久 
    吉井基晴 浅井文義 観世銕之丞 上田拓司

後見  長山耕三 上野朝義

以下に銕仙会の演目開設からお借りした概要をアップしておく。そういえばこの公演自体、銕仙会メンバーによるものなんですよね。

金春禅竹作。三番目物。

一ノ谷合戦で捕虜となり、鎌倉の狩野介宗茂(ワキ)の館に拘留されていた平重衡(ツレ)のもとに、今日もまた、彼の世話をするよう源頼朝から命じられた遊女、千手の前(シテ)が訪れる。昔の栄華とはうって変わっての今の境遇を嘆く重衡に、千手は懸命に寄り添い、慰めの言葉をかける。やがて宗茂の計らいで酒宴が始まり、千手は重衡の後生善処を願って朗詠を謡い、舞を舞って彼の心を慰める。二人が心通わせる束の間のひとときであったが、短か夜の明けるのを合図に、重衡は都へと呼び戻され、二人は今生の別れとなるのであった。

遊女と高貴な男という取り合わせが面白い。今や源氏に囚われ、死を待つばかりの清盛の息子、重衡。源氏方の便宜で彼に遊女が遣わされる。本来なら親しくはなれない身分違いの二人。この二人がしみじみと心を通わせるというのが、非常にドラマチック。この立体感が禅竹。また、遊女を主人公にしているところに、彼の遊芸者としての屈折した思いと、芸能者の矜持とが感じられる。それは『鵺』に籠められた芸能者、世阿弥の想いとも重なるように思う。

「郢曲之舞」の小書が付くときは解説によると、「ツレの役が重くなり、千手と重衡とが両ジテ的な扱いを受ける」とのこと。確かに、千手と重衡とは相補い合う関係。同じ比重に設定することで、重衡の境涯がよりリアルに立ち上がる。その悲劇性がしっかりと見る側に認識させられる。本人の意思とは関係なく、運命に翻弄され、天から地に落ちた重衡。まさに無常を一身に具現化した人物。この後に待っているのは死。まだ若い彼はその運命を受け入れられないでいる。千手はその彼をなんとか慰めようと心を砕く。この二人の交流が主題だろう。胸を打つ設定。哀しい。

この小書で演じるにはシテとシテツレとが同格でなくてはならない。でもシテが「弱い」ように感じた。儚げでまるで少女のようなシテの佇まい。千手はもっと強靭なキャラの女性として演じるべきでは?身分の高い重衡にも気後れすることなく、対等に渡り合った女性。そして彼を支えるだけの強い意思を持った女性。パワフルな女性として演じられるべき。それが描けていなかった。残念。

シテツレの浅見真州さんとシテの長山禮三郎さんはほぼ同年輩。つまり70歳をゆうに越えておられる。私としては地謡に連なっておられる「若手」の方にこの二人を演じていただきたかった。禅竹の能は「枯淡の趣き」を出すことを主眼としていないように思う。もっとドラマ性を前面に打ち出している。それなら、シテ、シテツレ、ワキも若い方々に演じてもらった方が、ずっと禅竹の意図に近づけると思う。

言わずものがなではあるけれど、大鼓の山本哲也さんがとても良かった。笛の野口亮さんを能のフルバージョンで聴くのは初めてだったけど、とても良かった。

そして何よりも良かったのが、芦屋市長の挨拶が短かったこと。先日の京都市長の呆れるほど長く意味のない挨拶と比べてしまった。さすが芦屋、センス、いい!