yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

浦部幸裕師シテの能『龍田』in「井上同門定期能十月公演」@京都観世会館10月28日

『龍田』を見るのは初めて。例によって銕仙会のサイトから演目概要をお借りする。

旅の僧(ワキ・ワキツレ)が竜田川にさしかかると、一人の女性(シテ)が現れ、古歌を引いて僧たちに川を渡るなと言う。彼女は僧たちを竜田明神に案内し、冬になっても鮮やかに紅葉している神木の紅葉などを見せていたが、実は自分は神が仮に姿を現したものであると言い、社殿の内に消える。夜、竜田明神(後シテ)が本体を表し、神楽を舞い、祝福する。

演者一覧は以下。

前シテ(竜田社の巫女)浦部幸裕 
後シテ(竜田姫の神) 浦部幸裕
ワキ(旅僧) 岡充
ワキツレ(従層)原陸

小鼓  林大輝
大鼓  石井保彦
笛   左鴻泰弘

後見  吉浪壽晃 井上裕久 

地謡  橋下忠樹 吉田篤史 寺澤幸祐 浅井道昭
    佐伯紀久子 橋本擴三郎 浦部好弘 勝部延和

電車の乗り継ぎがうまくゆかず、10分ほど遅刻した。ちょうどシテが出てこられたところ。橋掛かりのところで佇む様が優雅。優雅なんだけれど軽やかというのではなく、存在の重さが感じられる優雅さ。纏っている衣装が金糸銀糸の刺繍を施した美しく艶やかな打掛。唐織というらしい。その豪奢さに圧倒される。気品のあるその女性は巫女。演者は面をつけているので、年齢はわからないのだけれど、若々しい感じで演じておられた。でも、そこは神に仕える巫女。威厳が備わっている。旅僧のワキ方お二人も若い。

竜田川を渡ろうとした僧を、「竜田川の紅葉の錦を乱しては、紅葉の神である竜田姫の神慮に背く」と諌めた巫女。この若い巫女と若い僧たちとの「対決」は舞台に華やぎをもたらしていた。背景は冬という約束らしい。そこに艶やかな衣装をつけたシテが一点、まるで紅葉を散らしたかのような雰囲気で屹立する。この構図が面白い。すでに紅葉も散って、あたりはうらさみしい冬枯れ景色。唯一の秋の名残は川面に浮かぶ紅葉。これはまさに「存在しないものを偲ぶ」という新古今の世界。作はおそらく金春禅竹だろう。

後場。巫女が消えた神殿の夜伽をしていた僧たちの前に、シテが社から出てくる。豪奢な唐織は、頭には冠、手には幣を持った巫女装束に替わっている。その出で立ちでシテは神楽を舞い始める。竜田明神である。明神の舞を華やかに彩るお囃子。ウキウキ感が素晴らしい。紅葉が舞い散っているかのようにあたり一面華やぎに彩られる。まさに負の世界が正の世界に転換するところ。それはまた、俗が聖に取り替わるところでもある。この対比の妙に唸らされた。

銕仙会の解説にあるように、全編が歌づくし。紅葉といえば竜田川、竜田川といえば紅葉という連想は、まさにその歌群が醸し出す和歌世界のもの。「竜田川の水面を流れる紅葉の錦ではなく、むしろ薄氷にとじられた紅葉の視覚的なイメージを打ち出し、また、一本だけ神前に照り映える紅葉の神秘性を表現することで、紅葉真っ盛りの季節とはまたひと味違った、美しい世界観を提示しています」という解説は見事。美しい景色ではなく、すでに目の前からは消え去ってしまったものをあえてヴィジュアル化する作業。その作業に「付き合う」というのは、能観劇の醍醐味かもしれない。