yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能と小劇場のコラボがおもしろい『能×現代演劇 work#03 韋駄天』@山本能楽堂8月20日

能と現代演劇とのコラボ。こういう試みを見るのは初めて。どう折り合いをつけるのか、興味津々だった。「融合」させるというより、能の前場と後場の間の普通なら間狂言のところに現代演劇をはめ込んだ形になっていた。たしかにこれだと、構成上、内容的にあまり無理がない。

本公演についてのサイトをリンクしておく。当該サイトに「能x現代演劇」の試みについての解説がアップされている。以下。

山本能楽堂は、これまで、現代アートとのコラボレーション、LED照明での演出を加えた能舞台、文楽・落語・講談とのショーケースおよびコラボレーション公演、お子様対象の公演など、能に対して、さまざまなアプローチをかけて、能の普及と啓発につとめてまいりました。2016年より、現代演劇の視点を取り入れたコラボレーション公演の創作を開始致しました。現代演劇の劇作家による能への目線、伝統芸能を継承する能楽師の志を駆使し、作品を創り上げ、新たな舞台芸術の可能性を追求をします。

さらに、このサイトから能『舎利』のあらすじを引用させていただく。

出雲国の僧が都に上り、牙舎利(ブッダの歯)で有名な泉涌寺を訪ねる。僧が舎利を拝観していると、いつの間にか里人が一緒に舎利を拝んでいる。里人は、仏教がインドで起こってから日本にまで伝来した歴史(仏法東漸)を語り、仏舎利の尊さを讃える。すると突然空が曇り、稲妻が輝いたかと思うと、里人の顔つきが変わり、自分は実は、かつてブッダの死直後に舎利を奪った足疾鬼(足の速い鬼)の執心だと名乗ると、舎利を奪い、天井を蹴破って逃げてしまう。

ものすごい物音に驚いて、様子を見に来た寺男。お堂が荒らされた様子に、僧を責めるが、事情を説明され、かつて舎利が奪われた際には足の速い韋駄天という神様が舎利を取り戻したという話をする。そこで今回も泉涌寺守護の韋駄天に祈ることになる。

奪った舎利を懐に持って、空を逃げる足疾鬼。ふと気づくと、後ろから韋駄天が追いかけてきて、舎利を返すよう迫る。足疾鬼は舎利を抱えたまま、仏教世界の中心にある須弥山という山を駆け上がって逃げるが、途中で捕まり、一番下まで突き落とされてしまう。最後には、韋駄天に足で踏まれて責められるので、泣く泣く舎利を差し出すのだった。

演者一覧が以下。

能「舎利」
シテ(男・実は足疾鬼)林本 大
ツレ(韋駄天)    今村哲朗
ワキ(旅僧)     原大
アイ(寺男)     上吉川徹

後見 前田和子

笛 斉藤 敦 
小鼓 古田知英 
大鼓 森山泰幸 
太鼓 上田慎也 

地謡 井戸良祐 河村浩太郎 浦田親良
現代演劇 「韋駄天」
 作・演出 林慎一郎(極東退屈道場)
 出演 小笠原聡 加藤智之(DanieLonely) 小坂浩之 上瀧昇一郎(空晴) 村山裕希(dracom)

『舎利』を『韋駄天』にドッキングしているけれど、『舎利』は能ほぼそのままの形で演じられた。シテの林本大さんは先だって6月に能『一角仙人』の後ツレで見ている。龍神役で勢いがあったのが印象的だった。もう一人の後ツレの山本麗晃さん共々、若さがパワーとなんてほとばしり出ていた。今回の鬼役も勢いが必要な役だったけれど、盗んだ舎利を分捕り、置き台を踏みつけて一目散に逃げ行くさまが、おかしかった。こういう動きに速さと力が求められる役は、年配者にはやはり無理があるだろう。1977年生まれの40歳。まだまだお若い。

韋駄天役の今村哲朗さんもまだ36歳。こちらも鬼と張り合えるパワーが要求される。もちろん年配者でも技でカバーできるかもしれないけど、肉体年齢はどうしても滲み出る。その点、今村さんも見ていて不安がなかった。この二人を「起用」したことで、このどこかユーモラスな能作品の舞台の成功が約束されていたとおもう。

一方の現代劇の方。お一人一人が年齢を明かす場面があるのだけれど、皆さん40歳から44歳までと、見事に能演者のそれとうち揃っていた。小演劇系では中堅になられるんだろうけど、それでも若い。たまたまだったのかもしれないけれど、今回の舞台で役者の年齢層を揃えていたというのが、何がしかの意味を持っていたのではないかと思った。

演出の林慎一郎さんも40歳。北村想の許で劇作を研修された。「極東退屈道場」を発足、主催しておられる。伊丹AIホールの演劇プロジェクトとも関わっておられるらしい。伊丹AIホールといえば、ちょうど三年前に「壁ノ花団」の『そよそよ族の叛乱』(別役実作、水沼健演出)を見たことを思い出した。

現代劇の方も哲学的な能と張り合えるよう、一見軽めのことば遊び、ことばのキャッチボールの中に、哲学的な「意味」をたくしこんでいて、かなり手の込んだ内容になっていた。めまぐるしく発せられることばの断片が相手に届かず、宙に浮いたままになる。あるいは、直球が変化球に変わって、目標とする相手から逸れてしまう。そこに浮遊する膨大な数のことばが醸し出す「饒舌」な空間は、それとはまったく逆の、ターゲットを定めていないのに、ピンポイントでぐさりとくる能のことが生み出す「寡黙」な空間と際立った対照をなしていた。現代劇ではことばの形とそれによって形成、構成される空間が重要になる。現代劇の過剰なことばが能の過少なことばと対峙したとき、なぜか過少が優ってしまう。過少な方がよりダイレクトに伝わってくるっていうの、フェアでない気もしてしまう。能のことば、それを紡いだ語り(謡)がもつ時間性にはどうあがらっても現代の語りは敵わないということ?そんなことを考えながら、ジャンルの違う「演劇」のコラボを見ていた。

山本能楽堂の観客は夕方から開催される定期能「とくい能」の影響か、若い層が多い。それは「たにまち能」等の能の普及活動を熱心に行っておられることもあるだろう。こじんまりとしていて非常に居心地の良い能舞台と客席。この日も普段以上に客層は若かったし、レベルも高かったように感じた。小演劇関係と思われる人もちらほらといた。