yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

シネマ歌舞伎『東海道中膝栗毛』は舞台版を超えていた?

猿之助/染五郎大奮闘。健気なほどに大奮闘。この二人をシネマ版で初めて見た人は虜になったこと間違いなし。二人にもそうだけど、歌舞伎に。それほどシネマ版は効果があったと思う。

実際の舞台は昨年8月に見て、ここの記事にしている

まず構想の奇抜さに脱帽した。演出の指揮をとったのは猿之助。「構成」の杉原邦生は京都造形芸術大学を卒業した新進気鋭のプロデューサー。木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一とは同窓で、仲間。木ノ下歌舞伎にも参加している。猿之助も同大学で芸術監督をしているので、おそらくその関係でこの抜擢となったのだろう。「スーパー歌舞伎」の演出者よりもはるかに斬新な演出と構成。「説教」ではなくエンターテインメントの真髄を魅せてくれた。大成功だった。

そしてこのシネマ版。舞台で見たときは前から2列目だった。あまりに舞台が近くて見落としてしたところが、このシネマ版では漏らすことなく見ることができた。合点が行くところが多々あった。

この際、この滑稽本を読んでみようと(原典に当たろうと)殊勝にも図書館から小学館の文学全集中のものを借り出した読んだ。というのは正しくないかも。読み始めた。ようよう60ページあたりだけど、どうも内容が歌舞伎版とは違っている。エピソード様のネタは原典から採っているのだろうけど、そこまで読み進んでいない。でもイカレタ雰囲気というかモードは原典のものに違いない。「洒脱」というようなかっこいいものではなく、もっと下世話。(だからこそ?)めっぽう面白い。元は黄表紙の作者だった十返舎一九。挿絵も全て自身の手になるらしい。また古典からの引用(もどきも)も散りばめてあり、まさに黄表紙。うがち、ダジャレ、引用等に満ち満ちている。

そのうがち、ダジャレ、引用といったアリュージョンの手法をそのまま援用したのがこの舞台。元の膝栗毛とは出来事は必ずしも一致しない。ただ、それらしきものは登場する。それらを歌舞伎の常套と組み合わせて「歌舞伎もどき」にトランスフォームさせた結果がこの舞台だった。シネマ版はそれをよりデフォルメさせていて、これも過激だった。

デフォルメの手法が最も顕著だったのが、例のラスベガスの場面。前の記事にも書いたけど、これは染五郎のラスベガス公演を「利用」したもの。ラスベガスでの舞台は「獅子王」といったらしい。もちろんこれはかの有名な、しかも今だにロンドン、NYなどにかかっているミュージカル作品を模したもの。染五郎主演の日本版は鏡獅子の獅子の舞を見せたんでしょうね。歌舞伎座の舞台中のラスベガスシーンでは染五郎、猿之助両人が毛振りを見せた。

また、デフォフメで私が一番気に入ったのが獅童の出飛人(デイヴィッド・コパフィールド)。このデイヴィッド・コパフィールドなる人物は当代きってのマジシャンだそう。英文卒の私から見れば、ディケンズの同題の小説しか思い浮かばないんですけどね。ディケンズのこの小説は主人公、デイヴィッドの「旅」を描いていて、当時はその通俗性を批判されたとか。これも『膝栗毛』と被りますよね。引用、うがちの精神に満ちているのが、楽しい。

シネマ版が良かったのは、編集によって全体の筋がより分かりやすくなった分、出来事出来事間の整合性が出たこと。もちろんバラバラで通しても良かったのだけど、せっかく映画一本にするという機会が与えられたのだから、それを存分に活かさない手はない。

社会風刺も利いていた。都知事、兵庫県会議員の経費の悪用、濫用を風刺する場面では映画の観客は笑っていたけど、1年経つとややオブソリート感はありますね、やっぱり。ゴシップを漁るハイエナの「読売屋文春」は今もイキかも。「文春」弘太郎氏が大活躍だった。

私が今回シネマ版で気づいたこと。幽霊十六夜の部屋が左右に大きく揺れ動く場面、あれって、チャップリンの『黄金狂時代』のアリュージョンですよね?

まだまだ、この手のアリュージョンがあちらこちらに散りばめてあったはず。こういう姿勢こそ、まさに十返舎一九のもの。そして舞台で猿之助、染五郎が披瀝したもの。色々な家から役者たちが大勢参加していた。二人の姿勢に多くの若手が賛同しているのがよくわかる。チープな「なんちゃって歌舞伎」を「歌舞伎」と言い張って舞台に乗せる自称「未来の人間国宝」役者は彼らの爪の垢でも煎じてほしい。猿之助、染五郎の二人を中心に大きな革新の輪が広がったことを目撃できた。より一層はっきり、シネマ版でそれを確認できたことが収穫だった。