yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

観世流能『田村 替装束』in「京都薪能」@平安神宮6月1日

『田村』は『noh play TAMURA』として、今年の2月に京都ロームシアターで見たばかり。前シテの片山伸吾さん、後シテの古橋正邦さん共にこのときの演者。さらに、浦田保浩、河村和貴、宮本茂樹各氏もこのとき地謡を担当されていた。作品の舞台が清水寺ということで、舞台バックの巨大スクリーン正面に清水、左右に桜と松が配されていた。映像とのコラボが面白かった。今回は正真正銘の「能」としての舞台。でも薪能なので、能楽堂で見る舞台とはだいぶん趣きが異なっていた。

この日の演者一覧を以下に挙げておく。

前シテ 片山伸吾 後シテ 古橋正邦
ワキ 原大
ワキツレ 小林努、岡充
大鼓 井林清一
小鼓 竹村英雄
笛 杉市和

地謡 河村和晃 河村和貴 宮本茂樹 吉田篤史 
   吉浪壽晃 橋本礒道 大江又三郎 浦田保浩
 
後見 片山九郎右衛門 味方玄 武田邦弘

この日の薪能の最終演目、『舎利』にも京都の観世流能楽師が打ち揃って出演しているので、まさに京都人による京都人のための京都の薪能になっていた。京都能楽の裾野の広さとそれを演じる能役者の充実ぶりが窺えた。これぞ千年の時間を擁する伝統の重みかも。「腐っても鯛」ならぬ「腐っても京都」(失礼!)なんて言いたくなってしまう。能のような極限までシンプリファイした形式の舞/劇を舞台にのせるには、逆にある種の爛熟が必要なのかも。そんなことを考えながら見ていた。いささか呆れながら。

『田村』の解説を例によって銕仙会の「能楽事典」よりお借りする。

春、旅の僧(ワキ・ワキツレ)が清水寺に訪れると、不思議な少年(シテ)に出会う。少年は清水寺の由来を語り、僧たちに付近の名所を教え、満開の桜の下で僧たちとともに春の宵の風情を楽しんでいたが、夜になり、「私の正体を知りたくば、わが行く先を見よ」と告げると、境内の田村堂へと姿を消してしまった。じつは少年は、坂上田村麻呂の霊が仮の姿で現れたものであった。夜、僧たちが経を読んでいると、田村麻呂の霊(後シテ)が在りし日の姿で現れ、東国の叛乱を鎮めた武勇を語り、観音の霊験を讃えるのであった。

一応「修羅能」に分類されるらしいけど、平家物語から採った他の修羅能と違うのは、重点が戦闘に置かれていないところ。だから、「修羅の苦患からの救済という要素」がなく、「後段の千手観音のありがたさを浮かび上がらせるものとなっている」(パンフレットより)。他の修羅能にない「祝言性」を際立たせているとのこと。そういえば前段の桜を讃えて舞う童子の様はいかにものどか。あたり一面の春の景色に溶け込んでいるかのよう。

後段、田村麻呂の勇壮な姿も前段の童子のイメージが重なって、勇猛果敢という面はさほど際立たせられていない。それがまた観音のイメージへと収斂するので、武勇というより、「武勇」という徳を愛でる舞の感じ。観音を寿ぐことで終わるので、修羅能の最後とは全く違った趣きになっている。

田村麻呂といえば、歌舞伎NEXTの『阿弖流為』を思い出した。勘九郎が極めてリアルに演じきった田村麻呂。染五郎の阿弖流為との「友情」が悲しいまでに美しかったっけ。

もう一つ思い起こすのは、アメリカの大学院で読んだ恋川春町の黄表紙、『金々先生栄花夢』に登場する田村麻呂。田村麻呂も千手観音もハチャメチャな「使われ方」をしていた。田村麻呂って聞くと「金々先生」のそれを連想して、笑ってしまう(失礼!)。

能の舞台と同じく、「のどかに過ぎ行く宵だった」と言いたいところだけど、この頃になると薪が燃え盛って、火の粉も観客席に飛んでくるわで、ちょっとざわざわっとした雰囲気になっていた。煌々と火に照らされた舞台は、厳かではあったんですけどね。