yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

大槻文蔵師シテの能『杜若』in 「多武峰談山能」@談山神社5月22日

「能は見るんじゃない 妄想しながら眺めるの」とは女性能楽師、林美佐さん(MisaH)のtwitterでのつぶやき。それを実体験したのが、この『杜若』だった。シテの舞とそれを煽る囃子によって、つぎつぎと幻想が湧き上がり、それらが渾然一体となって、夢かうつつか定かでない狭間に埋没する。

その只中に、淡々と舞われる大槻文蔵師の姿が。美しかった。つい先月「篠山春日能」で『桜川』を舞われるのを拝見したばかり。行く方知れずになった我が子を思う母の想いが、川に浮かぶ桜の花びらを掬い取るところに表れていた。強い想い、それと綯い交ぜになった底知れない虚しさ。その二つを凝縮させた師の舞に感動した。

美しい舞というのは、この方のためにある言葉かもしれない。楚々としていて、しかも強靭で。

今回の『杜若』は、そういう師にふさわしい演目だったように感じた。これって、とても難しい能だと思う。とにかくとらえどころがない。古典のアリュージョンがつぎつぎに出てくる。幻影を醸し出すのに使われている歌。それらがどういう「意味」を持っていたのかを事前に知らなくても、師の舞を見れば自ずと伝わってくるはず。「意味をどうしても知りたい」という人もいるだろう。それをはぐらかすそんな能のような気がした。ともあれ、「能.com」からこのあらすじを引用させていただく。

あらすじ
諸国を巡る僧が、三河国に着き、沢辺に咲く今を盛りの杜若を愛でていると、ひとりの女が現れ、ここは杜若の名所で八橋(やつはし)というところだ、と教えます。僧が八橋は、古歌に詠まれたと聞くが、と水を向けると、女は、在原業平が『かきつばた』の五文字を句の上に置き、「からころも(唐衣)き(着)つつ馴れにしつま(妻)しあればはるばる(遥々)きぬるたび(旅)をしぞ思ふ」と旅の心を詠んだ故事を語ります。やがて日も暮れ、女は侘び住まいながら一夜の宿を貸そう、と僧を自分の庵に案内します。

女はそこで装いを替え、美しく輝く唐衣を着て、透額(すきびたい)[額際に透かし模様の入ったもの]の冠を戴いた雅びな姿で現れます。唐衣は先ほどの和歌に詠まれた高子(たかこ)の后のもの、冠は歌を詠んだ業平のもの、と告げ、この自分は杜若の精であると明かします。

杜若の精は、業平が歌舞の菩薩の化身として現れ、衆生済度の光を振りまく存在であり、その和歌の言葉は非情の草木をも救いに導く力を持つと語ります。そして、伊勢物語に記された業平の恋や歌を引きながら、幻想的でつややかな舞を舞います。やがて杜若の精は、草木を含めてすべてを仏に導く法を授かり、悟りの境地を得たとして、夜明けと共に姿を消すのでした。

この日の演者は以下。

シテ 里女、杜若の精  大槻文蔵
ワキ 旅の僧      福王知登

笛    藤田六郎兵衛
小鼓   大倉源次郎
大鼓   石井保彦
太鼓   中田弘美

後見   赤松禎友 武富康之
地謡   片山九郎右衛門 上田拓司 浦田保親 林宗一郎 大槻裕一

一場の中で、里女—杜若の精—高子—業平と変容するシテ。最初の変身のときは高子の唐衣に業平の冠を着けて。きらびやかな衣装。近くで見たのでとてもリアル。その衣装に見合った優美な舞。狭い舞台を軽やかに舞う。夢見がちに見ほれていると、つぎの瞬間には激しくダイナミックなテンポに変調。シテがすぐ目の前。うわーっと迫ってきて、見ている側に覚醒を促す。この緩急の呼吸のみごとさ。連動し補強する地謡と囃子。一つ一つが渾然一体となって創りあげる杜若の世界。それは変身譚でもあり、恋の言祝ぎでもある。さらにいうなら「美」への賛歌。

「能.com]の「みどころ」には、「業平が『歌舞の菩薩の化身』となり、それが悟りへとつながるさまをこの能は描いている」とあるけれど、私にはその一歩手前、現世における美の極みを(演者が)誇示しているように映った。歌舞の、そしてそれを担う者の矜持が、この最終場面の舞と謡に表象されているように感じた。