yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「角力場」(すもうば)in 『双蝶々曲輪日記』新春浅草歌舞伎@浅草公会堂1月13日第一部

『双蝶々曲輪日記』では「引窓」を何度か見ているが、「角力場」は初めて。以下が松竹サイトからお借りした配役一覧とシノプシス。

<配役>
放駒長吉    尾上 松也
山崎屋与五郎  中村 隼人
藤屋吾妻    中村 梅丸
濡髪長五郎  中村 錦之助
<みどころ>
素人角力出身の放駒長吉と貫禄たっぷりの関取濡髪、二人の好対照が魅力の世話物のお芝居です。

以前から度々お世話になっている「歌舞伎見物のお供」というブログに詳しいあらすじと見どころが載っている。参考にさせていただいた。ありがとうございます。

相撲取りといえば火消しと並ぶ江戸の華。江戸庶民のいわばヒーロー。ただこの芝居の舞台は江戸ではなく上方。あえてこの芝居を選んだというところに、ちょっとした屈折を感じるのは私だけ?歌舞伎だってやっぱり江戸の華ですよね。江戸エンターテインメントのメッカ、浅草で、歌舞伎芝居に乗せるのがこの「角力場」っていうところに、やっぱり歌舞伎役者の江戸前の「心意気」を見てしまう。たとえ舞台が上方ではなくても。いかにも若手が「どうだ!」と言わんばかりに「時分の花」を披瀝したように思えた。若手の心意気が大いに感じられた舞台だった。

今でいうなら「不良」少年が大きくなったような放駒長吉。その長吉のまだまだ正規の関取とは呼べないような「チンケさ」、軽さを松也はよく描いていた。未熟な若造、でも純な心を持っている。それが弱みでもあるわけで、案の定悪い侍、平岡に付け入れられている。この公演の松也は全体的に引いた感じ。大人しくなったというか、成熟したというか。でも今まであまり感じたことのない陰影のようなものが出ていて、これは素敵だった。

長吉と対照的なのが立派な関取、濡髪長五郎。錦之助だとわかったのは大分経ってから。見事な化けっぷり。着物の下にパンパンに詰め物をして、腕や手にも肉襦袢ならぬ肉袖を着ての奮闘。ここまで膨張すると、動きもままならない。さぞ大変だっただろうと同情。でもさすがに貫禄十分。ご本人、観客をどこまで騙せるか、楽しんでいたように思えた。

興味深かったのは、舞台に設えられた相撲の掛け小屋。あんな感じだったんだ。DVDで見た『半七捕物帳』で神社に設営された小芝居の掛け小屋が登場し、当時の歌舞伎芝居の一つの形態を見れたように思い感動したけど、あのときの小屋とそっくりな小屋だった。当時、相撲と歌舞伎芝居とは親戚というか兄弟関係にあったんだと納得した。エンターテインメントの粋(すい)だったんだろう。観客が登場するのだけど、小屋の中を覗き見て、小屋の外から応援していた。中からは行司の声に客の囃す声。

相撲取りが役者と同じく人気者だったのがよくわかる。すでに名を成した関取である濡髪長五郎とペエペエの放駒長吉では勝負にならないはずを、どうも長五郎は八百長をして、長吉に勝たせたらしい。「へぇー、八百長って昔からあったんだ」と変なところに感心したりした。

長五郎、長吉という相撲取りに、絡めるのは商家の若旦那、与五郎。この人はいわゆる「つっころばし」で、上方芝居につきものの男前の優男。とにかく女々しいし弱い。でも、やっぱり「華」なんですよね。隼人の与五郎はそれを表すのにこれ以上ないほどぴったり。ニンに合っている。ただ、そのナヨナヨぶりを必要以上に誇張していたような。きっと面白がっていたのだと思う。そういやお父上の長五郎だって、なんかおかしかった。その誇張ぶりが。二人がいい勝負。

遊女の吾妻は梅丸。この日の「年始ご挨拶」は彼の担当だった。そつなくこなしていた。もっと外してもいいのになんて、勝手なことを考えながら口上を聞いていたのだけど。この芝居の中では結構弾けた女性として吾妻を演じていた。何しろ相手が頼りない与五郎なんですからね。女がしっかりしなくては。まだ二十歳になったばかり。伸び代はいっぱい。

若手が演じた「角力場」、上方が舞台ではあるものの、やっぱり江戸前だった。